鎌倉ヤマガラ日記

鳥の話はあれども野鳥観察日記ではない似て非なるもの

夢を聞く

夢を「見る」と言うが、英語では dream a dream とも言うから、その場合には何と訳すべきなのか?
「夢を夢見る」ではないはずだ。
何故なら、どこにもseeという意味合いの単語は含まれていないから。
ではそれを日本語ではどう言ったらいいのだろう。
「夢を夢する」か、それとも、ブルったとかヘマったとか言うのに習って「夢った」とか「夢る」とでも言うべきだろうか。

 

何を馬鹿なことを言い出したのかと思う人もいるかもしれないが、では、「夢を夢聞く」や「夢を聞く」は日本語として普通だろうか。

我々は夢を「見た」と感じるが、実際には目を閉じているわけで少なくとも生理学的な視覚感覚器官である目で夢を見てはいない。
にも関わらず視覚的に夢を捉えがちだ。
夢の中で人の声や物音を感じたことは誰にでもありそうだが、耳の方は閉じてはいないので、夢を、あるいは、夢の中で聞いた音を実際に(つまり夢の中でではなく)聞いていた可能性はあるのかもしれない。
少なくとも目で見るよりは遥かに可能性が高いと言えるのだが、それにもかかわらず我々は「夢を見る」と言う。

 

夢を見た体験はほとんどの人にあるだろう。
しかし、夢を見たことの客観的な証拠はあるのだろうか。
つまり、その人当人にしか見ることができないものをどうやって他者から見て客観的に立証するのか、という問題である。
そもそも夢を見たことは「事実」と言っていいのだろうか。
REM睡眠時に寝ている人を起こすと「今夢を見ていたところだ」と言う確率が高いことは事実として知られていて、それゆえREM睡眠を夢を「見ている」証拠だと考える人もあった。
REMはrapid eye movementで、睡眠中ではあるが新皮質脳波が覚醒状態になったりすることもあって、夢を「見ている」証拠だと考えても不思議ではないが、REM睡眠は状況証拠に過ぎない。
実際にREM睡眠状態にある人が「見ている」夢を実際に観察することは(少なくとも現在の科学水準では)不可能だ。
ましてREMの目の動きは実際物を見ているときの目の動きとは動き方も動く速度も全く違う。
いわば目が勝手に動いているという状態に近いのだ(もっとも、そういう勝手な目の動きが何らかの刺激になって改めて脳に伝わり夢につながっていくという可能性は否定はできないが)。

 

夢を見たこと自体がこのように立証不可能なのだとしたら、まして、夢見た内容をどのようにして「そう思い込んでいる」ことと区別できるのだろうか。
夢を思い出して「こんな夢を見た」という報告は、何度か報告したり表現しなおしている間に変容してしまうこともよく知られている。
そういう不確かな内容を聞き出して夢分析して人間の「無意識」を考えたフロイトは科学者としてそれを科学的に立証することを考えなかったのだろうか。
フロイトの科学性の限界はそんなところにもある。

 

夢を見るのか聞くのかだけでなく、温度や圧、触覚的なものを感じる場合もあるので、話は視聴覚だけに限られない。
「感覚モダリティの連動と乖離」でも少しだけ触れたことでもあるが、視覚と聴覚は必ずしもお互いに完全独立ではなく、言ってみれば、その視聴覚渾然一体のものが夢であるのかもしれない。
そうだとしたら、夢に触ったり、夢で熱くなることもあっていいのだろう。


もっとも日本語に限らないことだが、「見る」という意味合いの語は、「わかる」とか「知る」というような意味合いでも使われるので、「夢を見る」の「見る」も視覚的な「見る」を超えた意味合いなのかもしれない。

これは言語が曖昧だと言うことを意味しないと思う。
そもそも「見る」とか「聞く」と「わかる」とは仮に語として別のものであると考えたとしても、事象としては完全に別のことではないからだ。

 

そんな重箱の隅をつつくようなことを考えずに、感覚的にそんな感じがするものはそういうものなのだから、ただ受け入れて過ごせば人生は平和で楽しいものになるだろうと考えるべきだろうか?
確かにそうなのかもしれない。

「夢の秘密」を言語的に「語と語の緩い連結関係とその隙間にあるもの」から考え直すことはできないのだろうか。
この疑問というか「夢」は馬鹿の一つ覚えのように私の頭のどこかにずっとこびりついて、事ある毎に浮かび上がってくるものだ。

 

そう言えば、こんなタイトルの本もあったが、これはおそらくは「(誰かに)私の夢を聞いてください」と言う場合のlistenであって、「自分の夢を聞く」のではないだろう。
しかし、他人が語ったり行いで示すのでない限り、我々は他人の夢を見たり聞いたりすることはできない。
キング牧師はそのことをよくよく知っていたに違いない(Trumpのアメリカだから、今一度、キング牧師のことを考えてみようかと思った)。

 

  Listen to My Dream

 

 

改めて自分の夢を伝えることの難しさを考えたことであった。

 

(2017/04/15)