鎌倉ヤマガラ日記

鳥の話はあれども野鳥観察日記ではない似て非なるもの

それぞれの経緯から


人ひとり一人それぞれの生き方があるのだと思う。
他の生き物たち一匹いっぴき一羽いちわにそれぞれの生き方があるように。
この季節、立ち止まれば足元で、低く垂れた陽光が、明るい日の当たる場所とそうでない日陰の境界を静かに教えるように。
暑かったこの夏ですら、たまたま落ちた場所が日陰であったために小さく咲いた花、頃良い日差しに恵まれてすくすくと伸びた枝もあれば、炎天に晒されて萎縮し枯れた葉もあったに違いない。

生き物は果たして、もちろん人を含めて言うのだが、多くの国々の理想的なチャーターが指し示すようにほんとうに平等なのだろうかとふと思うことがある。
成功する者も失敗する者もいる世界だが、努力した者が成功し怠った者が失敗することを世のならいだと言うのは容易いが、努力を重ねても才能に恵まれず失敗する者、ほとんど努力もせずに生まれついた才能だけで成功する者がいることもまた世のならいであるだろう。
前者の不幸は努力を続ければいつかは幸福の兆しに恵まれ、後者の幸運は努力なしには長続きしないものだと考えて人は納得しようとするが、そういう因果応報的な考え方は果たしてこの世界のあり方を現実的にとらえているものなのだろうか。

この問題は、いや、「問題」と称する程のことでもないのだろうが、あながち、「ふと思う」ような事柄ではないのかもしれない。
大袈裟に言い募れば、つまりは「あの世」、来世の話なのだ。
長い人類の歴史において、来世を想定しなかった宗教はあっただろうか。
なぜこの世だけではいけなかったのか。
それは、この世で解決され得なかった、ある種の不公平を公平化するための方便ではなかったのか。
その未然の公平化なしには「正しいことをして生きていてもしょうがない」と人々が思うのを止められなかったからではなかったか。
あの世を前提とする公平・平等観を私は虚しいものだと思っている。
いや、虚しいだけではなく、むしろ、この世における公平の実現にとって害を為す思想ではないかとすら考えるものだ。

この不平等、不公平を半ば諦めながら納得するためのもうひとつの方便は、「運」だろうか。
「失敗したのは運が悪かったからだ」とか「幸運に恵まれて成功した」と人は言い、多くの出来事が人間の能力の埒外にあって、それをコントロールしているのはあくまでも人間とは別の力なのだと考えるのだが、そこには、何かしら「あの世」のように人の手のうちにはあり得ない、遠き存在らしき響きがある。
思いもよらない、どうにも説明のしようのない偶発的な事故というものがあって、それは「運」なのだと言うことがある。
しかし、この世界の中で起きる様々な出来事、その全てが、あるいはほとんどが、「説明できる」経緯で起きていると考えるのが正しいとは私には思えない。

もし世界の出来事のすべてが、あるいはほとんどでもいいが、説明できるのであるのなら、つまり、「説明できる」ということは、出来事の仕組みが相当度に理解されているということだが、そうであるなら、なぜ世界はこれほどまでに「不合理としか思えない」出来事に満ち溢れているのか、それこそ説明がつかないというものだ。
逆に、説明できる出来事は極めて少ないと私は考える。
もちろん、それは「超自然」とか「霊的」とかいうオドロオドロシイものを考えて言っているのではない。
いまだに解明されないことが多く存在しているから、「説明が行き届かない」部分が世界には山ほど在ると言っているだけだ。
そのようなことどもについて、すべて隅々にまで説明が行き届く時が来たとしても、なお白か黒か表か裏かが予測できないことは残るだろうけれど、それはまた別の問題であって、そこに至る前に為すべきことは海ほどあるに違いない。
 
狭い意味で人が「運」と呼ぶものは、単に確率的なものだと考える方を私は選ぶ。
(広い意味の「運」は、それこそ努力や怠慢や様々に説明可能な経緯まで入れ込んだ大雑把な考え方のことだ。)
かの偉大なるアインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言い、確率的な事象と見えるもののなかにも決定論的な「道理」や「仕組み」を見ようとしたと読んだことがある。
私は、アインシュタインへの敬愛を込めて、そして半ば微笑みながら、「ああ、きっとそうに違いありませんね」と言うだろう。
でも、その意味することは、こうだ。
「神が存在するのなら、確かにその神はサイコロを振らないだろうが、もしそのような神が存在しないなら、振られたサイコロだけが残るだろう。」
あるいは、「神が存在するのなら神は決してサイコロを振るような存在ではなく、世界もまた見事に説明され尽くすことになるだろうが、そのような神が存在しないのなら世界はサイコロのように確率的にしか挙動し得ないのではないのか。」

あの世と神や仏の関係は、この世と神や仏の関係よりずっと因縁深いものだろう。
神や仏の存在があの世の存在を保証し、あの世の存在が神や仏の存在を保証する、そういう共依存関係になっていると言うべきか。
もしもあの世が無いことが確かであるとしたら、神や仏はなんのために存在するのだろう。
あの世のない、この世だけの神や仏について考えるべきだと言ったら人は笑うだろうか。
確かに奇妙なことに思えるのだが、不公平を公平化する来世や神仏を前提しない公平・平等はあり得ないと考えるべきではないと私は思いたい。
 
「サイコロを振らない神」どころかそもそも「神」そのものが存在しない世界における出来事の成り立ちをどう考えるべきなのかを知りたいと思うのだ。

(2016.12.25)

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