鎌倉ヤマガラ日記

鳥の話はあれども野鳥観察日記ではない似て非なるもの

立つ鳥・飛ぶ鳥

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「飛ぶ鳥跡を濁さず」は本来は「立つ鳥跡を濁さず」だったと何処かで読んだ気がするが、出典は知らない。
中学生の頃だったか国語の授業で「たつチョウセキをにごさず」と読んだ奴が居て、「なんでそんなふうに読む?」と教師に聞かれ、「鳥」と「跡」の間に「は」とか句読点とかないので区切るのはおかしいかと思ったと答えていたのを不意に思い出した。
言語における「語の区切り」ほど興味深い(不快でもあるが)ものはないと思う私の出発点だったのかもしれない(多分、嘘)。
しかし、そう言われてみると、航跡とか軌跡とかいう語があるのであれば鳥跡という語があっても良さそうだと思う。
確かに鳥が飛んだ軌跡は目には見えないからだ。

仮に空気が乱され羽に揚力が与えられるような空気の不均一さが生じていたとしても、それが目に見えることはないだろう(いや、特殊な状況では見えることも有るのかもしれないのだが、一般には見えない)。
しかし、水鳥が水面から飛び立つときには水飛沫の航跡ができたり、あるいは、見事に円い波紋が広がることがあって、これは目に見える。

空中ではこうはいかず、「鳥跡」が見えるはずもないのだが、それでも、それが見える気がするときがある。
残像というほどのものではなく、単に鳥が飛ぶのを見た人間の側の記憶が、見えないはずの軌跡を見せるのかもしれない。
私はけっこうそういうふうに見えてしまう人間だから、そう思うのかもしれないが。

結局は空中を飛ぶ鳥の跡は見えないのであるから「跡を濁さず」と言うのだろう、と「飛ぶ」を「飛び立つ」ではなく「飛ぶ」と見なすような無理な解釈をして楽しんでみる。
日本語だと「飛ぶ鳥」は「飛んでいる鳥」の意味にもとれるから上のような誤解や無理な解釈の余地ができてしまうのだが、「飛び立つ鳥跡を濁さず」と言えば、こうした誤解や無理な解釈の余地もなくなるだろう。
逆に「立つ」を出発する、飛び立つの意味でなく、standやstanding、あるいはstand upと解釈してしまう可能性も当然あるわけで、そうなると、なんだかユーモラスな光景が目に浮かんで来る。

この種の「動作を表わす語」の曖昧さというものはけっこう多くの言語で見られることなのかもしれないが、日本語もまたその例にもれず、なのだろう。
エスペラント語を創りだしたルドヴィコ・ザメンホフは、動詞の前に「〜し始める」を明示する接頭辞を作っている。
他にもザメンホフは、「部屋に入り込む」などのような動作の起始点と到達点を区別することにも関心があったようだ。
あたかもザメンホフがあれこれと自分の言語に工夫を加えていったように、多くの言語もそうやって明確化のために進化してきたのかもしれない。

さて、「飛ぶ鳥」の「飛ぶ」は「飛び立つ」であり、本来は「立つ」だったのであり、もともとは、水鳥が飛び立った跡の水は濁っていないで綺麗なままだという意味であったらしい。
確かに、浅瀬の水の下には泥鰌などが潜んでいる泥があり、その泥の中に差し込まれた脚を下手に引き抜いて飛び立てば、水は濁るかもしれない。
そうならないのは、鳥がいかにも身軽に、そして「ふっと」飛び立つからなのだろう。
その飛び立ち方の美しさをきっと古の人たちは愛でたので、「跡を濁さず」という言葉が生まれたのかもしれないと、また勝手な憶測をして楽しむのが私なのだが、鳥が「ついと飛び立つ」とか「ふっと飛ぶ」というような表現は鳥の飛び立ち方をよく捉えていると私は思う。

鳥が飛び立つ瞬間を撮影しようとしたことがある人には分かるはずだ。
鳥の飛び立つ瞬間はかなり予測しにくいところがあってシャッターチャンスを逃しやすい。
おそらくそれは、鳥が空気の動き(風など)や外敵が近くに居るか否かなどを含め、様々な要因を踏まえた上で飛び立つからなのだろうと、最近よく思う。
かってダイサギやアオサギなどの大型の水鳥を追いかけた頃にもよく思ったことだった。
この予測の難しさの理由を知りたいと今も思っている。
というか、鳥が「何故」飛ぶのかを鳥のように、鳥になったつもりで知りたいと思うのだ。

話は違うが、庭に鳥が来ると、そこら中に糞をする。
梅の木の下辺りに車を止めていたりすると、毎日洗車するハメになる。
これでは「跡を濁さず」ではなかろう、と人に言ったら「必ずしも飛び立つときに糞をするわけではないのではないか」と(暇人には暇人の仲間がいるものだ)。
糞ついでに言えば、「ネコババ」というのは猫が糞に砂をかけて隠すことから出来上がった言葉だそうだが、そもそもなぜ猫は自分の糞を隠すのだろう。
逆に、「臭いつけ」(マーキング)という種々の動物の行動は、自分の縄張りを示すためだったり恋の相手を探すためだったりするので、「隠す」のは、逆に身を守るために発生した習性なのか。

そこまで考えて、今一度、なぜ立つ鳥は跡を濁さずなのかを考えてみる。
もしかしたら、「最後は、あるいは、去るときには潔く」という意味で使われることの多い「飛ぶ鳥跡を濁さず」は、自分の居場所を可能な限り追跡されないようにする習性から来るものだったりするのではないか。
ヤマガラを身近で見ていると、彼らが「餌を食べる」前後に緊張度が高まっていることに気づく。
餌を食べに来て、その時なおもずっと背後を気にし続けている。
後ろから襲われる、背後を取られることを恐れているのだ。

野生の世界では「食べる時が最も食べられる時」であって、食べることに夢中になっているときこそ敵から捕食される可能性が高いときなのだ。
言ってみれば、彼らは餌を取りに来ながらいつも逃げることを意識し用意している。
鳥の飛び立ち方は潔いというよりは、餌に拘泥していては自分の生命が危ういという野生の掟から来る俊敏さなのかもしれない。
ならば、その飛び立ち方の美しさには深い意味があることになるだろう。

そう言えば、飼い猫ですら人前では死なないと言う人も居る。
象は死期を察して群れから離れるとも言う。
己の生きた証、痕跡を残さないことに何かしら意味があるのだとしたら、それは何か。
ヤマガラの飛び立つ後ろ姿の愛らしい円いお尻を眺めながら、そんなことを考えていた。
彼らはきっと「そんな意味論なんてシリません」と言うのだろうが。

(2017/02/07)