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鎌倉ヤマガラ日記

鳥の話はあれども野鳥観察日記ではない似て非なるもの

(音楽再生Magnatune Music Playerプラグインは最下段のフッタにあります)

感覚モダリティの連動と乖離

タイトルが重々しいが、それほど突っ込んだことを書くわけではなく、ふと気づいたことを書くだけだ。

 

感覚と言っているのはファッション感覚のような感覚ではなく、視覚、聴覚、触覚、味覚などの感覚であり、大雑把に言って、その感覚の種類がモダリティ(様相)だ。

例えば視覚と聴覚は別の感覚であり、一般に、目は光を感じ、耳は音を(場合によっては聞こえない圧を)感じるのであり、目で音を聞き、耳で光を感じることはできない。
人によっては、共感覚といって、音を例えば色として感じるなどの特殊な能力を持っていると考えられる場合があるが、今、感覚モダリティの連動とタイトルに書いたのは、その共感覚のことではない。
そういういわば特殊事例ではなくて、ごく一般的なことを言っている。

 

どういうことかと言うと、例えば、強風に木の枝が揺れているのが見えるときには我々の多く風がヒュウヒュウと鳴っているのを聞く。
これは、そもそも風、気流が枝の周辺で例えばカルマン渦を巻き、そこに音が発生しているからであり、そういうことが起きているならば当然のように風は枝を揺らしているだろうから、枝の揺れと風の音とは「連動」していることになる。
共感覚と異なるのは、この連動が我々の外で既に起きていて、我々の内部、我々の感覚において初めて生じたわけではないという点だろう。
触覚や味覚の場合は、聴覚と視覚の関係のように明瞭ではない。
枝に触れたとき、我々は枝を触覚的に感じるとともに視覚的にも感じ取っているのだが、その連動は我々の外で既に起きているということは難しい。
視覚に障害があるような場合には、我々は触覚だけで「枝に触っている」ことを感じることになるのだろう。
ここでの「外」という言い方、分類には多少とも問題があるのだが、今はおく。

 

話を風と枝に戻すと、こうした聴覚と視覚の連動は自然界ではごくごく普通のことのはずだ。
例えば、目の前に居る牛がモーと啼くのを見聞きするような場合、あるいは、あなたが私の前に居て話しかけてくる場合、あるいはまた、雨が降るのを見聞きする場合、などなどだ。

 

しかし、この、ごく普通の関係はまた、実に簡単に損なわれる。
例えば、遠方の草原に牛が草を食んでいるのを見ていたとしよう。
この牛がモーと啼いたとしても牛が遠方に居るならばその姿は見えても声が聞こえないという場合が起こり得る。
こういう場合、聴覚に訴えてくる声と視覚に訴えてくる牛の姿の連動はなくなっている。
連動がなくなる理由は、この例の場合は、距離だろう。
我々が牛の近くに居ればそういう乖離は起きない。
距離という隔たりが連動を壊しているわけだが、距離でなくても、牛が厩舎の中で啼いているとき、厩舎の外にいて牛が見えない我々は声だけを聞く。

 

そう、これらは皆言うまでもない、当たり前のことなのだが、では、こんな場合はどうだろうか。
あなたが道を歩いていて、あるいは、部屋で本を読んでいるときに、不意に後ろで友人の声がする。
驚いて振り返るが、振り向いても友人はそこに居ない。
こうなると、あなたは何か普通でないことが起きていると感じるだろう。
通常は起こり得ないことなのだ、友人の声だけが聞こえて姿が見えないということは。

 

しかし、例えば、あなたがオンラインのビデオ会話を楽しんだ後で、そのスイッチをあなたも友人も切り忘れていたという場合、あるいは、道沿いの電柱に市の広報スピーカが設置されていて、友人は市の職員で地域に関するお知らせの放送を担当しているというような場合、この視覚と聴覚の不一致は特に驚くべきことではない。
上の例には共通項があり、それは人間が創りだした人工的な装置と機能によって可能になったものだという点だ。

 

自然な環境では(つまり人工的装置の無い環境では)どうだろうか。
遠くにいる牛の姿が見えるのに声が聞こえないことは我々がしばしば経験することなので、驚くべきことではない。
場合によっては、声もかすかに聞こえ、それが風の音に紛れたりして聞こえなくなるのは、我々の耳に届く牛の声の音量が小さいからだと理解することもできるから、そういう経験の積み重ねの結果として、遠くの牛の声が聞こえないことは驚くべきことではなくなる。
逆に言えば、非常に大きな音で牛の声がしていながら、牛が見えないということは通常起き得ない。
友人の声があなただけの部屋で聞こえてくることが通常起こりえないのと同じことなのだ。

 

上の、人工的な装置のある場合と自然な環境の場合とを我々は知識に基づいて(あるいは多少の経験に基づいて)「驚くべきことではない」と判断するし、ほとんど考えることなく理解する。
それは、そういう人工的な装置にも我々人間が慣らされてきた結果だと言えるだろう。
(もし、我々が江戸時代の日本か中世ヨーロッパに携帯電話網と携帯電話、あるいはトランシーバのセットを持ち込んで使えば、我々はきっと霊媒師か魔法使いとして扱われることになるだろうが、それはその時代の人々が携帯電話やトランシーバというものを知らないし経験したこともないからだ。)

長々と書いてしまったが、さて、やっとこんなことを考えて書き連ねてきた理由にたどり着く。

 


もし、窓辺の実験室でヤマガラたちがやってくるパネルのすぐ傍で、ヤマガラやシジュウカラの声が聞こえたとしたら、それもその場に居るような音量で聞こえたとしたら、それはあなたが自分の部屋で友人の声を聞いたときのような奇妙な感覚を鳥たちに与えるだろうか。
通常、鳥たちは声の音量に応じてその声の主が何処か近くにいると感じたら、その声の主を探すだろうか。
あるいは、また、姿も見えない鳥の声を聞くことは、ゴーストの恐怖を鳥たちに与えるのだろうか。
鳥たちはその姿なき声を不審に思うか、それとも腹話術を見聞きする我々のように驚きながら楽しむ余裕を持つのか、あるいはまた、姿も行動も無い音だけの刺激では、まったく鳥とみなさずに無関心であるのだろうか。
鳥の声をスピーカで流すということは、鳥を聴覚的にだけその場に提示するという奇妙な出来事であるに違いない。

 

鳥たちは、声の主の姿が見えない場合も、声だけに反応して行動する場合があることは色々な形で知られている。
特に食事と身の危険に関わるような音声の場合には例に困らないだろう。
そうした声の持っている「意味」の理解とそれに応じた行動は「本能的」というか生得的・遺伝的に決定されているものだと考えがちだが、果たして経験によって学んだり変化したりはしないものなのだろうか。

 

我々人間がそうしてきたように、この不自然な状況を人工的なもの、あるいは雑音に類するような音として捉えたり、そもそもの生得的な意味合い(そういうものがあるかどうかは一先ずおいて)とは異なる信号として捉え直したりすることがあるのか、などなど。

知りたいことは何と数多くあることか。

 

(2017/03/21)

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