鎌倉ヤマガラ日記

鳥の話はあれども野鳥観察日記ではない似て非なるもの

趣味とアイデンティティ

今までも「趣味を持っている人はイザという時に強い」という考えを何度か聞いたことがあった。

似たようなもので「信じるものが有る人は・・・」というのもある。

憂さ晴らしになったり気分転換になったりするから、それが有る人は危機に瀕しても乗り切れるというふうに深く考えもせず思い込んでいた。

 

いや、単純なことなのだがそういう理屈ではないのかもしれないと最近考えることがある。

その考え方においては、上で言う趣味はアレコレの趣味であってはいけない。

能力があるからと言って多芸してもいけないし、移り気に次々と変わる趣味であってはいけない。

望むらくは、馬鹿の一つ覚えで、人生の長きにわたって続くものでなければならないと。

 

アイデンティティ、自我同一性あるいは自己同一性という言葉がある。

要するに、生きている間、自分がどういう者であり、またどうやって生きていくのかについて、自分の考え方や感じ方が保てているということだ、昨日も今日も、そしておそらくは明日も。

過去=現在=未来。

あるいは、自分(過去)=自分(現在)=自分(未来)。

そして、おそらくは、過去(自分)=現在(自分)=未来(自分)。

どちらが関数で、どちらが変数なのかは微妙なところかもしれないのだが。

 

人生ではそのアイデンティティが揺らぐときがある。

「このようにして生きていていいのだろうか、これからは、今までと違うようにならなければいけないのではないか」

そういう問いかけが意識的無意識的に何度も繰り返されて、方針がグラつき続ける、そういうときだ。

そうなると、感情的に不安定になるだけではなく、行動も無方針というか場当たり的になり、また、不安が大きくなる。

そのときに自分を「取り戻し」あるいは「維持する」ために支えになるものは何なのだろうか?

 

職業?

それも一つではあるだろうが、職業においては、おそらく何度も変化することを人は余儀なくさせられる。

仕事上の立場が変わる、職場が変わる、あるいは、職場に非常に大きな問題が起きる、などなど。

だから、逆説的に聞こえるかもしれないが、職業は重要すぎて「その支え」にならないのだ。

というか、それは自分を保つための支えであるよりは、保つべき自分そのものである場合が多いのだと思う。

では、家族?

それもまた、職業に似て重要すぎ、自分に関わりすぎているために、そしてまた、変化を余儀なくさせられるものであるゆえに、「その支え」にはならないかもしれない。

 

しかし、趣味というものは、そう、本業ではなく飽くまでも趣味であり余技である。

皮肉っぽく言えば、「それほど重要でもなく、自分そのものでもないだろう」もの。

そして、おそらくは、余暇や余技レベルであるというところから、職業や家族とはまったく違って、危機には瀕しにくい事柄。

そうなのだが、それが、捨て去れないほどに愛着して居ることであれば、人は趣味について細部について、また、全体的な展望についても、よく理解し、そして、何よりも大切なことだが、それは、ある意味、「ずっと変わらない」物事、つまり、過去=現在=未来において変わらなく保たれるものになっている。

 

あの時この趣味に関してこういうことをした、次の時にはこの同じ趣味についてああいうこともした・・・

そういう記憶が、ある意味では自分を計るメジャーになる。

伸びたり、ちぎれたり、歪んだりしない、確かなメジャー、真っ直ぐな物差しに。

あのときもそうだった、次のときもこうだった、あるいは、あのときの自分はこうだったではないか、それが自分だったのだ、と、だから、今だって、と考えることができる、そのための、いつも変わらない物差し。

 

だからこそ、迷った時、自分らしさを見失いかけているとき、自分のしていること、関心を持っていることで、なおかつ、変わらないものが「その支え」になることができるのではないか。

自分がわからなくなるというのは、自分を測る<基準>が見失われる、不確かなものになるということだから、そのようなときには揺らいでいる基準に代わって、変わらない<基準>になってくれるものが必要なのだ。

一生、毎朝、同じ道を歩くことをし続ける人は、その歩みによって、歩みを基準にして、自分の状態を、また、自分の変化を知ることができるだろう。

歩き続けてきて、歩くことが<基準>になったのだ。

趣味というものもそれとよく似たこと、あるいは、同じことなのではないか。

と、そんなことを考えたのだった。

というか、何の気なしに、いつもしていることを(例えば、TVを見、キーボードを叩き、本の頁をめくるなど)しているときに、不意にそういう考えが頭を過ぎったのだが、それをこうして書き綴っているのは、それが、とても鮮明なイメージだったということなのだろう。

 

旅し続ける芭蕉の姿、芭蕉にとっては、旅がそういう「趣味」だったのだろうか。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。

芭蕉をしてそう言わしめた旅。

 

万物流転の世の中であり人生であるのかもしれない。

その中で「変わらないもの」はそれほど多くはないに違いない。

しかし、どんなものであれ、それを持っている人は、危機に瀕して、言わば背骨のように自分を貫き支えるものを持っていることになり、だから、「強い」と言えるのだろう。

 

実にアタリマエのことに過ぎない。

過ぎないからこそ今はそのことを何度も反芻している。

すべき時機なのだろう。

 

 

追記:

漫然と書いてしまったので上で使われている「同じ」という表現は曖昧で理解しにくいかもしれない。

「不変」「変わらない」という表現も厄介だ。

一般に「等しい」と「同じ」、あるいは、「同等」と「同一」は必ずしも同じ!ではない(身近な例では、例えば英語のsame~as~とsame~ that~、あるいは、sameとidenticalなどなど)。

変数xの値が例えば1,5,11,21というふうに変化しても同一の変数xである。

身長、体重、年齢、あるいは、学校や職場などが変化していくのに「同一の人」と言えるためには何が必要か(上のxについても同じようなことを問うこともできる)。

詳細は省く(書きたいことは多いのだが)。

 

(2018/01/28) たまたまそんなことを書いていたら、Hatenaからこんなメールが来た:「1年以上の長きにわたってブログを継続いただいているユーザー様を対象に、過去の同じ時期に投稿した記事を振り返るメールをお送りします」そうそう、ブログもうまくすれば上に書いたような趣味になるのだろう。残念ながら、このブログについて言えば、私の場合はまだまだだなのだが。