鎌倉ヤマガラ日記

鳥の話はあれども野鳥観察日記ではない似て非なるもの

「区切る」ことから考えた「もの」と「こと」

柔軟なカテゴリー カテゴリーの記事一覧 - 鎌倉ヤマガラ日記の幾つかの記事(特に、カテゴリーとキーワード - 鎌倉ヤマガラ日記)でも(また恐らくはかなり多くの記事の中でほんの少しずつ)私が触れていることどもに関連しているのは、delimitないしはdelimiterという語だと思っている。

Delimiterはプログラミング言語などで命令や語句、項、構造などを区切る区切り記号・区切り符号をさすが、日常的な自然言語においても様々な形・機能の「区切り」が存在する。
スペースやカンマ、ピリオドもまたdelimiterの一員だが、句、節といった語の連なりをひとまとめにして、その前後から区切るのもdelimiterと今は言うことにする(記号・符号として目に見える形を取らないので、invisible delimiterとでも呼びたいところだ)。
このdelimiterの話はいろいろと果てしもない論議になるので、今は前置き程度に触れるに留めたい。

 

Delimiterの動詞はdelimitであり、「境界を決める・定める」「区切る」と訳されているが、境界を決めるというと、何かしら境界線のようなものを引くというニュアンスで、勢い、区切りの線に関心が行ってしまう(少なくとも私はそうだった)。
しかし、delimitは「範囲を決める・定める」と訳されてもよく、そう訳すと着目点は境界線からそれによって区切られた範囲あるいはその範囲に含まれる内容に移るのではないかと思う。
どちらに着目しようが、結局は同じことだろうと考えることもできるけれど、実はそうではないのではないかと私は思うのだ。

境界線に着目していれば、それによって区切られた何かは単に「区切られたもの」としてひとまとめにして扱われるが、しかし、範囲に着目すればその範囲に含まれるものが単一とは限らず、例えば複数の語であったり、複数の句であったりし、そして、その複数のものの各々の間の関係も関心事項になるはずだと私は考える。
要するに、森の区切りを森の周囲を囲む閉じた曲線としてイメージするとき、森は囲まれたひとまとまりで、そこのどのような種類の木があるのか、高さや太さ、あるいは樹齢はどうかということに触れそびれるように思う。


もともと何にせよ「区切る」という行為には、区切られたものに何らかの共通性、特性、あるいはその範囲の外の何かに対するよりも濃厚な関係を同定するということが含まれているだろうから、区切る以上はそういう共通性・特性・関係性こそが重要なはずなのだ。
しかし、その区切りに含まれる複数の項目の関係が複雑であるときに、ひとまずそうした複雑な関係には触れずに、この区切りで区切られたものについてはとりあえず一つのまとまりとして考えておく、あるいは、置いておくということをする場合もあるはずだ。
何かそのひとまとまりを暫定的に取りまとめている概念、あるいは、代表する目印のようなものをあてがっておけば、その目印を単に引用すればわかり易くなる(あるいは、なったような気がする)。
実に、こういった目印として使われるものの一つが、キーワードだったりカテゴリーだったりする。

 

 

「もの」と「こと」について直接触れた二つの過去記事で、「もの」の無時間性と「こと」の時間性・推移性について少しだけ触れたし、また、既に確定した「もの」、未だ確定していない「こと」にも触れた。
実は、上で前置きとして書いたdelimit、それによって生じる「区切り・境界線」と「区切られた複数の内容項目」との関係が、それぞれ、「もの」と「こと」の関係に重なるのではないかと暫く前から考えるようになった。
そのことを箇条書き的に示すと、

1)「もの」は何かを「外側から」対象化して示し、従って、話者はそれに対して距離を置いている場合があり、また、確定したか確定を志向する場合に使われるが、「こと」は何かに距離を置いてそれを対象化するというよりは、むしろ、当事者として関わる姿勢を含んでおり、むしろ「内側に入り込んでいる」姿勢が感じられる。
2)「こと」が、何かに関わりその内側にいる(当事性)のであるならば、話者はその何かの今後の変化に関心を持ち、あるいは参画することになるので、結果として、その何かに含まれる個々の内容に関わらざるを得ないので、個々の内容項目に関心を持って語ることになるが、「もの」は確定し既にひとまとまりとして扱い得るので、その中の個々の要素には触れられない傾向がある。

2)は「分節化」、あるいは分節可能性とでも言うべきことかと思う(「文節clause」も含む可能性はあるが基本的には「文節」ではなく「分節segmentation」である)。

そこまで考えてきて、ふと頭に浮かんできたのは、時枝文法(言語過程説)における「詞」と「辞」だった。
品詞として何が「詞」や「辞」に該当するのかということは今は触れない、もともと時枝文法では、「文の要素」的なものと「陳述(述懐?)」的なものを区別しようとしたと考えられ、「詞」と「辞」がそれぞれ「文の要素」と「陳述」に当たる。
「詞」の代表格は名詞であり、「辞」の代表格は助詞や受動・使役などの助動詞(いずれも日本語での品詞)である。
「詞」は現実の様々な物を、「辞」はそれに対する話者の関わり方を表わすというのが極めて大雑把な理解だ(私は時枝文法に興味を惹かれるが、細部では納得できないこともあるので、大雑把なレベルに留まることにする)。
今は細かい論議をするつもりがないので、この非常にいい加減な説明に留めてしまうが、なぜ「もの」と「こと」について考えているときに「詞」と「辞」を思い出したのかというと、それは私が、「陳述」に話者の参画というか当事性を感じたからだと思う。
つまり、「辞」は「こと」と共通する何かがあり、そして、「詞」には「もの」と共通する何かがあると考える。
その何かとは上に箇条書きにした二つの点なのだが、おそらく、これ以外にもいろいろあると私は予想している。

 

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ところで、例えば、movingを日本語に訳すとき、「動くこと」と訳す習慣があるかと思うのだが、それは「動き」と訳したほうがスッキリするのではないかと思うことがよくあるのだが、しかし、上に書いた「こと」のニュアンスが正しいとすれば、「動き」はどちらかというとmovingを「もの」的名詞的にとらえ、ひとまとまりであって要素に分割しにくい印象を与えている感があるのに対して、「動くこと」は経緯・推移を含む感があって、その中に色々な要素が含まれているというイメージになるのだろうか。
何かの論議を書き出すときに、「動きというものについて考える」あるいは「動くということについて考える」と書きだしたとして、その後にあなたは何を書き続けていくだろうか。
それは決して同じ内容にならないのではないだろうか。
(もちろん、私はここでアナログとデジタルの対比を持ちだそうというのではないし、話はそんなに単純ではない、というか紋切り型に区切ることは出来ないものだと考える。)

 

さて、このような「もの」と「こと」の関係について、思い込みも含めてあれこれ考えているのだが、1)や2)で私はこうした文法的な、あるいは、より広く言語的な問題を扱いつつ、実に私の最大の関心事は、このことの先にある「数学的な問題」だったりする。
それについては、またいずれ書けることを期待しているのだが。

最後にちょっとまた謎かけ的なことを書いておきたくなった。

それはこうである。
なぜ「物語(ものがたり)」という言葉はあるのに「事語(ことがたり)」という言葉はないのだろうか。

 

(2017/06/01)

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