しばらく書くこともないとしておきながら、これは書いておきたいと前言を翻す。
書くこともないと書いたのは、ここしばらく、ある懐かしいプログラミング言語をまた使いたくなってリハビリ中で、それに時間を取られて余裕がないと考えてのことでもあったのだが。
昨日、咲いた花や新しい葉を眺めて回った時には不覚にも気づかなかった。
今日になって、スイカズラの密集する緑を背景に、あの白と薄桃色の花を見つけたのだ。
この木瓜は、ツツジとスイカズラのジャングルに埋もれていた枝を見つけて、ジャングルの外へと引きずりだしたものだった。
何故ここに木瓜が在ったのかは知らない。
以前、庭の何処かに大きな木瓜の木が在ったことは覚えている。
祖母が大事に育てていたものだった。
林檎に似た実だが、ゴツゴツとアバタづらの実で、印象はそれほど良くはなかった。
花についてもあまり良く覚えていなかった。
しかし、ここに戻って、ある日ツツジとスイカズラのジャングルの中に小さな白い花があるのに気がついた。
ジャングルの中で光を求めて伸びたのか、ひょろりと長い枝が哀れでもあり、小さな白い花を美しいと思ったせいもあって、折らないように苦労してジャングルの中から庭側へと枝を引っ張りだしたのだった。
それが、こんな秋に花を咲かせる。
今年は、四、五月頃にも咲いていたはずだ。
そういう品種なのか、それとも、酷暑と塩害の後の適量の雨と暖かな日差しで季節を間違ったのか。
庭の植物を見ていると、なんだか、もう一度春が来てしまったかのような枝ぶりや葉をしているものがあるようにも思う。
今年の天候は余りにも奇妙だったから、植物たちも混乱しているのだろう。
だとすれば、狂い咲きの一種なのかもしれないが、「妖精の輝き」という花言葉のように、妖精は狂えば狂うほど美しくなってしまうのかもしれないなどと、勝手な花の神話を思い浮かべていた。
戸棚の奥、梅干しの大瓶などに混じって、ラベルももう判読し難くなっていた木瓜酒を昨年末か今年の春頃だったかに見つけて、苦労して読んだ日付は10年以上も前のものだった。
木瓜の実ももう完全に分解して跡形もない。
「飲めるだろうか、腐っているかもしれない」
そう思ったが、開けた蓋の向こうから神秘的とも言いたくなるような甘い香りがして、誘惑に負けて一口飲んで驚いた。
果実酒と言うと、どうしても果実の持っている癖があって、甘すぎたり苦すぎたり、時にはアクが強かったりし、アルコール部分と果実の部分が味の上でどうしても分離している感があるものだが、この木瓜種は、アルコールと果実とは完全に融合して単一の酒になっている、つまり、「果実酒を超えている」と思う。
1リットルあるかないかの瓶なので大切にして、本当に時々味わうだけにしている。
酒飲みの私は高い酒を買って愛蔵するなどということは滅多にしないし、できもしないのだが、この木瓜種は秘蔵するだけの価値がある。
それがまた欲しくて木瓜を助けたわけではない。
この木瓜はまださほど大きくないので、実も少ないか大きくはないだろうと思う。
いつの日にか、この木瓜が大きな実をつけるかどうか私は予測もしないし願いもしない。
そういう日が来るのなら来れば良い。
来ないのなら来ないでも良い。
私はただ、この小さな「妖精」が生きていてくれることだけでいいと思うのだ。
(2018/10/30)
ちょっと調べたら、木瓜にも寒木瓜や二季咲きの木瓜という品種もあるらしい。
金蓮花もは春と秋に咲く。
季節が何処か似ているということなのだろうか。
外目には携帯だが中身は完全アンドロイドという「売れ残り3分の1値段」スマホで最初に撮った写真を後から見たら、分岐点に何やら緑の丸い物が。
「もしかして実?それとも蕾?」と言ったら「時を待とう」という声。
そうだな、これもまた、The answer is blowing in the wind ならぬ blowing in the time 「時に吹かれて」 か。
Peter, Paul and Mary - Blowing in the Wind
(2018/10/31)