水仙が咲いていた。
豪華絢爛と咲く花ではないし、場所は庭の片隅の日陰。
そもそも誰かが植えたのか、あるいは私が土を移動した時に土の中に隠れていて、それが芽を出して成長したのか、それはもう分からなくなっていた。
それでも去年よりも背が伸びた気がする。
薄曇りの、少しは暖かな日だと言っても一月の風は冷たい。
スイカズラの生け垣に隠れてはいるが、冷たい風がスイカズラの隙間から吹き込んでくれば頼りなげに揺れるのだ。
それをじっと眺めていて、考え直したことがあった。
水仙の花と細長い葉が風に揺れる。
それは、風という能動の影響下に、あくまでも受動的に揺れている、揺らされているのだと思っていた。
けれど、水仙にもいのちがある。
風の吹くままになるのではない。
風に吹かれて、なお姿勢を保つために復元しようとするのだ。
花も木も成長することを除けば自ら動くことはない。
その意味では、水仙の動きは受動的な現象だと言えるのだが、その受動は水仙の風に揺れる動きを100%説明はしない。
風の動きに抗う、水仙の茎と葉と花の抵抗力、反発力を計算に入れなければ、水仙の動きは説明できないのだ。
そうであるならば、この抵抗力、風の動きから何かしらの動きを減じるマイナスの力は、水仙の隠れた「能動」なのではないか。
動けぬ者たちの生きている証とでも言うべきか。
そこにはもしかすると、それこそ水仙が根ざしている地の力、根を支える力も加わっているのかもしれない。
言ってみれば、地霊の力だ。
そんなことを考えて、私は、ある人が言った「静かな風景の向こう側にも生きモノがいる」という言葉を再考した。
生きたモノとは単に生物だけではないのではないか。
生物をそこに在らしめている様々な力も「生きている」と言うべきなのかもしれない、と。
そう考え直してから見た水仙は、まるで冷たい風の中で自ら踊っている草色の踊り子のようだった。
そして、もしかすると、我々人間にしても、「生きている」というのはこういうことなのではないか、自ら生きているのではあるけれど、そう思っているのが普通ではあるけれど、実にその事、そういう行き方自体がまた「生かされている」のでもあるのではないのか、とも。
(2019/01/17)