I.
「今」を語るとしたら、その語り方には幾つかの方向付けがあるだろう。
1)今だけを語る
2)過去から辿って今を語る
3)未来を望んで今を語る
1)「今」というのは尚も過ぎていく時間を含むのであって、完全に確定しきったことではない。
これだけを語るというのは、2)や3)の要素を含めないで語る、含まない今だけのことを語るということだが、それはいったいうどのようになるのだろうか。
2)はある意味、既に確定した事象を語ることから始めて「今」を語るのであるが、だからと言って、この「今」が確定しているわけではない。
3)未来は「未だ来ざるもの」であれば未確定なものであるが、もしかすると「今」決めたことに100%基づくような未来があるのであれば、やや確定的なのかもしれない。
過去はある程度確定したものであるという感覚から、過去から語り始めることは比較的容易でもあるはずなのだが、今朝のことを、昨日のことを、一週間、二週間、あるいは一年、数年、遡って語らねば、つまり経緯を語らねば、本当の今を、その深みを語れないとしたら、今を語ることは容易なことではなくなる。
未来について、今日の夜のことを、明日のことを想定して今を語ることはさほど困難ではないだろう。
しかし、一年先、数年先のことを想定して語る今は、確実性が低くなることは間違いがない。
1)のようなことが可能な場合で、たやすく想像できるのは、経緯もないような、いわば単発的な出来事だ。
過去からの経緯も引きずらず、未来への思い入れもない、「ただの今」。
いずれにしても、ちょっとだけでも考えてみると、今を語るのはさほど簡単なことではないのだが、時代はTwitter以来「今何してる?」の世界になっているのかもしれない。
Blogというメディアも「今、あるいは、今日、何を」の世界なのかと言うと、実はそうとも言い切れない。
何日、何ヶ月、何年にもわたって書き続ける人がいる。
何年もにわたって日々を語り続ければ、そこに経緯が自ずと現れてきて、今を語る一つの記事の中で敢えて過去を語る必要はなくなるのかもしれない。
「ね、前にも書いたから知ってるでしょ、私のこと」みたいなノリで書くことができることになる。
人と人の出会いと理解しあう有り様も同じだと考えれば、出会いの場としては、それはそれで良いのだろう。
しかし、その場合、読者も長く読者でなければならないことになる。今日初めて、そのblogを発見した人にとっては、経緯はゼロだ。
経緯を知らずに「今だけ」を読んだ時、その今はどのように理解されるだろうか。
(それを補うためにか、過去記事を引用できるシステムは結構あるだろう。)
上のようなことは、私がここで書くときにいつも気にかかることなのだ。
II.
さて、それはまた一先ずおいて、多くの言語には「時制」というものがある。
早い話が、現在、過去、未来、あるいは様々な完了形、進行形を示す動詞もしくは助動詞の形がある。
しかし、また、幾つかの言語において、時制は存在しない。
時制がないのにどうやって過去を語るのか?
それは例えば、語る文脈で次第に時間が経過するというような、いわば上のblog的な形。
あるいは、時点を表すために敢えて、例えば文頭に「昨日のこと」と明記すれば、それはそれでわかってしまうだろう。
では、なぜ、多くの言語では時制というものを必要としたのだろうか。
過去、現在、未来の時間の流れを一段落、あるいは一文、あるいは一節の中に凝縮して語らねばならない時があったからではなかったか。
それは、いわば簡潔に語るための(あるいはサマリーとして語るための)効率的な手段になったはずだ。
あるいはまた、例えば時間経過のある中での因果関係を語るときにも、こうしたことが必要であったろう。
こう考えると、言語における時制の有無には、生活文化のあり方が大きな影響を与えているのだろうと想像することはさほど突飛なことではなくなる。
時制の有無に基づいて言語を概観した時、時制の有無と地球上の地理的環境条件との間に関連性があってもおかしくはない。
「毎日、温暖な気候で、食べるものにも事欠かず、日々大きな変化もない暮らし」の中では(仮にそんな暮らしがあったとしたらだが)、過去はなくても良いし未来を気遣う必要もないし、過去からの経緯もさほど需要なことではなくなる。
いつも「今を語る」だけで何も問題はない・・・・
私がふと「今を語る」今の文化に疑問を感じたのはそんなことを考えたせいでもあったか。
III.
さて、話を少しだけ前に戻そう。
動詞に時制の無い言語では、
1)blog的文脈(過去の記述の蓄積など)で時間の推移を感じさせるという方法
2)時間を表すために「昨日のこと」などの時間表示を最初に行なう方法
というものを上では考えてみたのだが、実は広い意味では2)もまた「文脈」と言うことができる。
この意味での文脈(context)は必ずしも時間軸を含むとは限らない。
言ってみれば、「背景事情」というようなことであって、過去ではない背景はいくらでも考えられる。
「今、目の前に熊がいる状況において」云々。
また、文脈という言葉は実に不思議で、普通は「過去の文脈」を考えるが、「未来の文脈」ということも考えることは難しくない。
将来を想定して今を語るという場合はいくらでもあるからだ。
そうなると「文脈」という語の意味していることは何かという疑問に至らざるを得なくなる。
実際、プログラミング言語のように人間生活上の現実的経緯には関わりがない言語においても、文脈(context)を想定する場合や、実際に文脈を一つの構造として持ってくる言語が幾つもある。
プログラミング言語ではない、人間コミュニケーションを前提とした人工言語でも「文脈」用に専用の語を持つものもある。
実に、この問題は、語の発し方、統語、文法、語順、等々に関わる、そのことにパラレルな構造をなしているのではないか、と私は考える。
例の日本語の特徴の一つとされる「象は鼻が長い」文だが、これにも幾つもの考え方がある。
細かく細分化すれば相当数の異なった考え方だが、今はまったく大雑把にくくってみると、
1)「象は」=主語・主部、「鼻が長い」=述語・述部
2)「象は」=文脈・主題、「鼻が長い」=主文
2)の場合、「象は」は「象においては」「象について言えば」ということであり、「鼻は長い」が中心的主張であって、その背景ないしは文脈が「象」だということにしよう。
1)では、「鼻は長い」は象について語る一文の述語あるいは述部であって、それが入れ子的(再帰的)に、主語「鼻は」と述語「長い」を持つ、もう一つの文になっているということになる。
いずれも今の説明では実は整合性が今一つなのだが、今はこれ以上は考えない。
2)のような考え方は、英語などの言語とは相性が良い考え方になるだろうが、このような入れ子型解釈は、日常生活ではせいぜい一重、二重になるのがやっとで、それ以上、入れ子が重なれば、聞いている方の記憶容量が追いつかなくなる。
もともと、「背景」であってもよかった文脈的なものを、一文の中に凝縮するという方向で行く限り、マトリョーシカが何重・難渋にもなっていくことは当然の結果だと考えられる。
他方、1)では、主たる主張の一部であるはずの「象」が「背景」に後退するだけ、印象が薄くなる可能性が出てくる(「背景」ではなく「文脈」と言えば少しは主であるという印象が保てるか?)。
いずれにせよ「文脈」もまた、「鼻が長い」を取り巻く事情である以上、更により大きな文脈・事情を考えることができる。
例えば、「象において」の外側に「アフリカにおいて」「インドにおいて」あるいは「地球において」「古代において」「21世紀において」などなど。
と、ここまで来ると、1)と2)の行き方は方向が逆だが、実は同じ必要性から来たものだと考えることができるだろう。
極めて、大雑把に言えば、「語っている内容の状況の複雑性」をどう言葉、言語的表現に反映していくかという問題だ。
では、そのどちらを採るかを決めている要因は何か。
そここそが知りたいところなのだが。
IV.
ちょっと話が変わるが、推理小説という文学ジャンルはいつも興味深く読まされる。
話し手・書き手(送信者)が聞き手・読み手)(受信者)にどのように物語を展開していくかがキーとなる。
重要でない経緯を強調し、重要な経緯を隠せば相手を欺くことができる。
その巧みさが結局は推理小説の醍醐味なのだろう。
読み手の好奇心を満足させながら話を真実から遠いところへと運んでしまうテクニック。
そこで言う「経緯」はある意味で、上に書き来たった言語の時制あるいは文脈における問題と重なっている。
経緯を何処まで語るか、どこまで入れ子の(再帰)レベルを深くするか。
どこまで深い随伴性記述が必要か。
V.
そんなこんなで、最近、私は文法書片手に新しい言語を学ぶときには、「送信者とと受信者の経緯レベルのグラフ」というようなものを思い浮かべるのが習慣になっている。
テキスト上で描くのはあれこれ困難だが、イメージとしては例えば以下のようなものになるだろうか。
ーーー表現の時間軸ーーー>
送信者
ーーーーーー
ーーー
ーーーーーーー
<vs>
ーーーー
ー
ーーーー
受信者
何のことか全くわからない?
さもありなん、申し訳ないことだと思うが、今は解説はしない(し、できない)。
極めていい加減に描いてみただけだからだ。
庭に植えた桂の木の葉が色づく季節だ。
あの恐ろしい塩害の時には葉が皆萎れて枯れてしまったようになったが、やがて新しい緑の葉を出し、かくして今は色づいている。
この色の、この葉の形が見たかったのだった。
背景には、シラユキゲシの葉が繁茂している。
来年はたくさんの花が咲くだろう・・・
時が経ったということなのだ。
(2018/12/24)