鎌倉ヤマガラ日記

鳥の話はあれども野鳥観察日記ではない似て非なるもの

「正答」と「ほぼ正答」の間

 

 

窓辺の実験室の実験パネルでは例えば右キーと左キーがあって、右LEDと左LEDがあるわけだが、右LEDが点灯しているときには右キーを押す(つつく)ことが「正答」で左キーを押すことは「誤答」であり、また、左LEDが点灯しているときには左キーを押す(つつく)ことが「正答」で右キーを押すことが「誤答」とであると「設定」しよう。

これは、言語的に少しだけ抽象化して言えば、点灯しているLEDと『同じ』側のキーを押す(つつく)ことが正答で、そうでないキーを押す(つつく)ことは誤答であると言ってもよく(『同じ』という語による抽象化)、他にも異なった抽象度でいろいろな形で表現することができるだろう。

そして、そういうふうにいろいろな形(あるいは次元)で表現した事柄は事実としては一つなのであって、また、共通する内容を持っているのだが、それにも関わらず、抽象度や次元が異なることによって、思わぬ「違い」(表現の違いではなく、それが指し示す内容に違い)が生じることがある。
抽象度や次元の隙間にはけっこう深い淵があるものなのだ。
(「この花は薄墨のような色合いだ」と「この桜は薄墨のような色合いだ」を比べてみたとき、それぞれの色はどのような色と感じられるか、等など、例はこれに限らず幾千とあるだろう。)

 

それはともかく、ここで、今、私が考えようとしているのは、この「正答」「誤答」という二分法についてだ。

我々は「正答」「誤答」という語を例えば、「3+5=8は正答だが、3+5=10は誤答だ」というふうに使うのが普通だと考える。
しかし、もし課題が「この計算の答を四捨五入して答えよ」ということであったとしたら、3+5=8ーー>10であって、3+5=10は正答となってしまう。
この場合は「どの程度にまとめるか」という、いわば解答精度の問題でもあるかもしれないが、要因はまだ他にも多くある。

 

今、あなたが教師で子どもたちが「どれだけこの加算計算がわかっているか」を評価しなければならないとしよう。
普通、そういう場合、我々は、何度も類似の問題を与えて、それに対する正答の割合、「正答率」というものを考える。
そして一般的な学習プロセスでは、正答率は最初は低いが徐々に高くなっていき、最も高い正答率は100%だが、人間である我々は必ずしも完璧な100%に達するとは限らない。
計算に関係ないことに気を取られていたり、あるいは、計算に集中してはいたが、次の問題の数を見ていて、それをうっかり足してしまったというような「ミス」が起こらないとも限らない。
そういうことを考えると、現実的な判断では「わかっている」が100%を意味する(要求する)ことは実はそう多くはないと考えざるを得ない。

逆に、例えば、上のキーとLEDの課題で、正答率がゼロ%だったとしたら、この解答者は課題が全然わかっていないと考えるべきだろうか。
もし正答率がゼロ%であったとすると、これはいわば「完璧な誤答」なのだろうか。
「解答」に該当するキーは左右2つであり、この場合、正答率がゼロ%だということは、解答者は、点灯しているLEDと「反対」側のキーを100%押したということになり、それはそれで、無茶苦茶な(ランダムな)解答ではなく徹底していて、「何かしらわかっていることがある」、あるいは、LEDの点灯している側を見極めてはいるが、その反対側のキーを押すものだと「勘違いしている」と言えるかもしれない。
後者なら、解答ストラテジー(「同じ側」か「反対の側」かという)を切り替えれば、突然に正答率は100%になるだろう。

 

更にこんな場合はどうだろうか。LEDが点灯する側が10分ごとに右から左へ、左から右へ切り替わったとしよう。
そして実験参加者はだいたい1分に1回キーを押すものとし、結果として、10分間に10回キーを押したとする。
今、LEDの点灯側が切り替わる時点を「|」で示し、右キーを押したことをRで、左キーを押したことをLで示し、さらにその下に正答をO、誤答をXで示すことにしよう。
例えば、

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は正答率100%をし、正答率80%の例は次に示すようなものになる。

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この80%の例はLRが無茶苦茶(ランダム)に生じているというわけではなく、押すキーの切り替えがLEDの切り替えに着いて行っていない、切り替えに遅れがある場合だと考えることができそうだ。
つまり、点灯しているLEDと「同じ」側のキーを押すのだということは理解している(おそらく)が、LEDの点灯が切り替わったのを見逃したか、あるいは、気づいてはいたものの「今まで8回も同一側を押してきた惰性で」押す側を切り替えることを忘れたか、などの理由を考えることができるのだが、このような場合、点灯しているLEDと「同じ」側のキーを押すのだということを80%ほど理解したと評価すべきなのだろうか。

 

日常では余り気にならないような些細なことが、こうして実験場面に置いてみると、複雑なことに感じられてこないだろうか。
子どもたちに何事か基本的なことを教えた経験がある人なら、一度や二度はこうしたことを考えさせられているだろうと思う。
ヤマガラやシジュウカラに上のようなことを「教える」のは、どこか子どもたちに教えることに似ているようだ。

つまり、そこにはこちらが予想していない、思わぬ(想定外の)解答方式、解答ストラテジーがあるということなのである。

 

そして、この思わぬ解答ストラテジーは、解答する「態度」によって規定される場合がある。
例えば、上の80%の例を、100%解答することが容易な者たちは「不完全」あるいは「遅い、のろまな」と感じるかもしれないが、それは完璧を期待するところから来る。
今まで50%〜60%の正答率だった者にとっては、上の80%の例は「素晴らしい」「もしかしてかなりわかっている」といった評価になるかもしれない。

今、上のことを念頭に置きながら、実験室の実際を思い出し、正答がヒマワリの種1つを得ることになるという事実に目を向けよう。
極めて空腹の鳥で、しかも、実験パネルにおいてしか餌を手に入れられないとしたら、鳥は極力高い正答率、100%を望むだろうから80%の正答は「不完全」と評価するだろう。
しかし、中程度の空腹状態で、しかも、実験パネル以外にも餌を入手する方法や場所がある鳥は、80%の正答率は「十分に高い正答率」だと評価するだろう。
つまり、80%でも全く不愉快ではなく、危機意識も感じないのかもしれない。
そのような場合には、鳥は100%にすることなど考えもしないということになりそうだ、実験設定者である私が不満足な結果だと感じているとしても。

 

そこには、実験参加者の鳥は実験者の望むようには行動してくれないという状況が現れる。

こうなるのではないかと思い込みで考えたとおりに相手は動かない。
相手には相手の論理というか事情なりやり方なりがあって、それは例えば、こちらが必死に100%を希求していても相手は呑気に構えていて気ままに振舞っている、というようなことがすぐ、そして頻繁に起きるものなのだ。

もちろん、これは人間と鳥の間にある違いというよりは、実験設定者と実験参加者の間に違いであるのかもしれない。

もっと拡大して考えるなら、こういう実験は実験という枠、実験設定者と実験参加者という限定的な立場を超えて、コミュニケーションなのであり、何事か話す者とそれを聞く者の間にも起こり得ることなのだと思う。
無論、私は今、そのような一般化できる問題を、「正答」「解答する(あるいは回答する)こと」に限定することによって、問題を単純化し際立たせようとして書いているのではあるが。

 

さて、上の80%の例は単に切り替えが遅れただけだとは限らない。
例えば、LEDなど見ていなくてもキーを押しているのに餌が手に入らなければ鳥は「いまやっているやり方ではだめなのだから切り替えよう(それまでは今までどおりで行く)」という戦略で動いているかもしれない。
そのような「様子見」してからの切り替えが上の例では2回の失敗(誤答)で起きていたのかもしれないのである。
そして実際に、窓辺にやってくるヤマガラやシジュウカラの多くはそういう「様子見」を頻繁にやる傾向にある。

軽く動きキーをつつくことは鳥にしてみれば目でちらりと見るように労力の要らない行動なのだろう。
わざわざLEDに着目してその点灯している側を把握しなくても80%は餌が手に入るのだとしたら、ちらり見に等しいキーつつきなどいくらでもやってやる!というわけだ。
しかし、それらは、実験設定者側から見れば「誤答」としてカウントせざるを得ない。

こういう「すれ違い」とも言うべき「ネジレの位置にある解答」と正答との関係はどのように定式化すればいいのだろうか。

さて、上の例で、更に極端に(一般化)して考え、例えば、
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は例示した範囲で56.7%だが、これが何%まで行けば「わかった」と、あるいは「満足だ」と感じられる・評価できるのだろうか。
あるいは、正答率ではない、何かもっと別の「わかった」状態を判断する基準があるだろうか。
直上の例を一つ前の80%の例
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と見比べてみると、ヒントになりそうなものが見つけられるだろうか。
おそらく、そこには「わかりかけている何か」が隠れている。

 

その答は3+5−−>10ほども簡単なものではないだろうが、私は既に全く異なった別のこと(記事)で、上の問題に共通する「ある問題」を書き続けているという気がする。
このことはまた角度を変えて何度も触れるつもりで居るが、それは統計的な問題であり、また、集合論的な問題でもありながら、まだ明確に言語化できていないモヤモヤなのだ。

 


(2017/04/10)

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