鎌倉ヤマガラ日記

鳥の話はあれども野鳥観察日記ではない似て非なるもの

物を事にする

            (以下はかなり以前に他のところで書いたものを再録(若干修正)したものである。
            「ものとこと」の関係と「物と事」の関係をほぼ同一視した、というか、重ねて見た書き方になっていて、
            いろいろと現在の考え方に合わない部分もあるのだが、基本的な考え方を示す上で多少役に立つかと考え、再録した。)

 

「人生というものはですねぇ・・」と経験を積んだ人が遠い目をしながら言うと、もうそれだけでその先に何も言わなくても分かることがある。
しかし、わからないのは、人生は「もの」なのかという点だ。
確かに人生はlifeであって故に生命であり、生命とは少なくとも細胞の代謝がなければならず、細胞は物質であるゆえに物である。
だとしても人生は物か?
物ではないはずだが、それを「人生というものは」と言うのは奇妙ではないか。
加えて、私は細胞を「物」と呼ぶことにいささか抵抗があったりもする。

 

この日本語の「もの」、どうやらただの「物」ではないらしい。
国語学者でもないので仕方なしに辞書をひくと「物」にはかなり相互に異なった意味がある。
「物につかれて」というのは物質文明に疲れたのではなく悪霊などに取り憑かれた意味であり、「もののついでに」の「もの」は「物事」であるとなっていて、事にまで意味が拡大する。
「ものを知らない」というのもただに特定の個物を知らないのではない。
「そうあって当然」というのも「物(これは果たしてこの漢字が当てはまるのかどうかわからないが)」だそうで、「親には従うものだ」が例になっていた。

似た英語としてはthing辺りが浮かんでくる。
しかし、この語は事だったり物だったりする。
もしかすると、thingを悪霊的な意味合いで使っている映画があったかもしれない。
では、日本だけではないのか。

 

かくて、「もの(物)」イコール物質という私の意味論は否定されてしまったことになる。
辞書にはもう一つ二つ気になる説明があり、それは「もの」は「知覚しうる事物」とか「主語になりうる一切」を表わす表現だという説明なのだが、もうここまでくると具体的例が煩瑣に、そして多くなりそうですぐには頭がついていかない。

私の考える、いつものやり方はこうである。
まず、「もの」は物質であるから人生は物ではない。
むしろ人生は事象、起きた出来事の連なりであって、その意味では事である。
だから、「人生ということはですねぇ」と言うべきだと。
しかし、これはどうも「てにをは」を誤ったときより気持ちが悪い。
では、同じ意味合いを「こと」で言いおおせるにはどうすれば?
そうか、こう言えばよいのだ。
「生きるということはですねぇ・・」

 

となると、「もの」と「こと」の使い分けは、「人生」という名詞を受けるときには「もの」になり、「生きる」という動詞(不定形?)を受けるときには「こと」にすればよい。
人生に限らない。
「食物というものは」「食べるということは」「愛というものは」「愛するということは」以下、名詞と動詞を両方ともに持つ場合にはすべて当てはまる。
実はそういう意味では上の「主語になる一切」は当たっているようだが、当たっていない場合もある。
「生きるということは」の主語は意味上「生きる」という動詞であり、狭義に主語になるのを名詞に限定すれば、「生きるということ」までが主語になりそうな気もする。
で、それを「もの」で受け、「『生きるということ』というものはですねぇ」と言うか?

 

さて、「当然そうあるべき」が「もの」になるのは何故だろうか?
私のこじつけ発想ではこうだ。
「もの」はある種、固定した固体的ニュアンスがある。
こうあるべきだという事柄は基本的に動かないのであって、いつも決まってそうあるのだから「物」でよい。

では、悪霊あたりが「もの」になるのは?
おそらくは曖昧に不明瞭なままで何かを指すときに「もの」と言っているだけか、はっきり「悪霊だ」「お化けだ」というのを 憚ってわざわざ漠然とした言い方にしたのかもしれない。
しかし、悪霊のように定まりないものを「もの」と言うべきかという疑念は残るのだが、「悪霊」を「事」と言うのは難しそうだ。

ただし、ある科学的な文脈で、「お化けは事実あるいは事象だ」という主張もできる。
お化けという物質は存在しないが(物質なら「お化け」の定義に外れるだろう)、それを見るという行為、出来事は容易に起きるからだ。
「見たと感じた」あるいは「見たと思った」だけだったとしても、そういう感じたり思ったりした事実はあったのだから。

 

では、「こと」は物ではないとして、何が物と異なるのか。
私は、そこに何らかの変化・推移を見ることができるなら「こと」が使えるのだろうと考える。
「生きるということ」もそうだ。
インディアンのある部族の言語では時制は「過去・現在・未来」ではなく「定まった」と「定まっていない」があるだけだそうだ。
そういう意味でなら、「物」は定まっていて「事」はまだ定まりきらないというニュアンスかとも考えられる。

 

そこまで考えてくると悪霊やお化けみたいな存在は定まりきらない、曖昧な存在であり、「悪霊ということ」と言わねばならないことになるが、これは日本語では(日本語以外の多くの言語でも)受け容れられない考え方だろう。
ではなぜ「もの」でなければいけないのだろう。
おそらく、日本人のこの種の「もの」の使用方法には、定まりきらない、わけ分からない、曖昧な存在を、少しでも分かりやすく、とらえやすくするために、名詞化し「もの」と呼ぶような基本的態度・傾向があるのではないか。

 

少し違う角度から考えよう。
「事」すなわち出来事とは何か?
「事」はそのまま「物」ではない。
しかし、「物」が変化すれば「事」になる。
人の身体が足の動きによって移動すれば歩んだ「こと」になる。
林檎が木から落ちれば落下という「事」になる。
そういう考え方で進むと、実は物質もある種「事」なのである。
例えば、ある化学物質の分子。
それは確かに物であるけれど、それがそのような形で連結し存在し続けるという事実としてもとらえられるし、それよりも、その分子ができあがるプロセスは明らかに変化である。
量子物理学の学者たちが語る興味深い物質の根源はいつ、どう聞いても、もはや我々が日頃使っている意味での「物」からはほど遠い。

 

仏教、『中論』の竜樹は「行く人は行かず」と言ったそうだが、それは「行く人」という固定した存在があるわけではなく、その人が行くという「事」があるだけで、「行く人」という個物があるわけではない。
と、表層的な理解をしてみると、そこには実は、「定まったもの」「定まらないこと」が見え隠れしているようにも思えてくる。

 

心の在りどころが論議され、それはすべて脳なのだという意見を述べる人がいる。
それを聞くとき私の脳裏をよぎるのは「心というもの」という表現だ。
それは悪霊やらお化けやら曖昧でつかみどころのないという意味で「もの」であるのかもしれないが、一旦、「もの」と称すれば「物」として理解しようとするのは物事の順序(やや困った人間の性質なのかもしれない)であって、物であるならばそれはきっと脳なのだ!という発想なのかとも思わないではない。

 

とにかく、日本人はさまざまな事象・出来事を「物」化(名詞化を含む)して語る傾向がある。
いや、英語でも何語でも主語になるものは物的に扱う傾向が多かれ少なかれある(ラテン系の言葉はその傾向が少ない気もする)のだが、日本人ではそれが特に際立っているように思う。
それは、定まらず変化して行く事象を精確にとらえるには言語があまりに非力なせいなのかもしれない。
長々とした出来事の連なりを主語にして話したり書いたりすると理解しにくくなる。
また、上に書いたような事柄に拘泥しすぎればbrain-teasingを通り越し神経症的にならないでもない。

 

で、言葉遊びのついでに、我々が日頃「〜というもの」と言いそうになったとき、「た抜きの歌」ではないけれど「もの」を使わないぞと決心し、何でもかんでも「〜ということ」と表現することにする。

やってみたら思わぬ人生の秘密がみえてくるかもしれない。

例えば、「人生というもの」は「人生ということ」ではいけないか。

これは先ほど考えたときよりそれほど奇妙ではない。
が微妙に「人生というもの」から意味がずれる気もし、「生きるということ」のほうが座りがよいと感じる。
一方で、「誰かが叩き付けたわけでもないのに林檎が木から落ちる」を概念化して万有引力・重力とすれば話は先に進みやすくなるし、わかったような気にもなる。
多くの人は「重力」は「物」ではないという常識を受け容れている(のに、「重力というもの」と言うことが結構多い)。
意外に何が何でも「〜ということ」に言い換えるのは難しいのかもしれない。

 

さて、今日の最後に一つ。
「人生というもの」を「生きるということ」に置き換えることが許されるとしたとき、私にふと浮かんでくる疑問はこうだ。
「心というもの」を「〜ということ」に置き換えるとしたら〜にはいかなる動詞あるいは変化が該当するか。

1分以内に解答せよ。

 

 

 

こういうことについて書くと、廣松渉の名前を思い出す人も多いのかもしれないが、そして廣松流の考え方は嫌いではなく相性のいいところもあるのだが、私は必ずしもそういうスタンスで考えているわけではないし、目的とすることも違うと思っているけれど、触れずに済ますこともできないので、いつかまた触れるつもりでいる。


もの・こと・ことば (ちくま学芸文庫)

 

 

(2017/05/19)

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