日本語の「もの」と」「こと」の使い分けについて論じたページはネット上でもかなりに上る。
綿密に多くの例を挙げながら論考されたものもあれば、手短にバッサリ決めつけた感のものまで多種多様だ。
しかし、多くの論評・解説が、1)「こう考えられる、こう考えるべきだ」という点を説明した後で、2)しかし、「例外もある」として一,二の例外の例を挙げている傾向があり、その「例外」をあれこれ「こんな例もある」と考え増やしてていくと、例外のほうが1)の趣旨説明のための例を遥かに超えてしまいそうな場合も少なくない。
それだけ訳のわからない語、あるいは語用なのだと思う。
しかし、この問題は私が何か考えたり書いたり、あるいは人と話しているときにも気がかりになることが多いし、私の関心にとって重要な位置を占めてもいるので、あれこれ考えてきたし、これからも少し力を入れて考えなければと思うのだ。
それをする上で、最初からある種の前提というか方向性を設定しないで、思いつくままに様々な例でまずはニュアンス程度で考えるところから始めたいと思う。
つまり、この問題はしばらく(あるいは長く)お付き合いするテーマであるかもしれないので、気楽に進めていきたいということだ。
いや、実はだいぶ前になるが、ある学術雑誌に「物と事」などについての小論を載せてから時間が経ち、そのとき書いたことにあれこれ不満があって、それが膨らんできたということも、こうした厄介なことをまた書き始める動機なのだ。
上に触れた「ある種の前提あるいは方向性」の例は例えば、
1)ものは物であり、物質として在るが、ことは事であり、出来事、あるいは、事実関係のことを言う。
2)ものは物的であるため無時間的(ただし、これも、ただ時間を考えていないという場合もあれば永遠にそうだというような強い意味での場合もあるだろう)であるが、ことは明らかに事実の推移を含むので時間的な要素が含まれる。
3)物質であると言えば、目前のボールペンのように具体的なものを指しそうだが、ものは物ではなく、ある物を本質的にとらえたときに使うことが日本語には多く、それに対して、ことは事実関係の中の物と物との具体的関係性を指すが、ことがより普遍的な意味合いで使われる「例外」もありそうだ(笑)。
などである。
一方で、「もの」は時に感情的な表現であり、「そうだもの!」とか「こまったものだ!」のように使われているが、これは少し用心したほうが良さそうだ。
そういうものの多くは(全部ではない)もしかすると「もの」ではなく「も・の」あるいは強意で「も」が弾んで「もん」それから「もの」になった(逆方向も有り得る)のかもしれない。
日本語では「も」はそういう感嘆的な語であったはずで、そこから由来した「もの」もあるのではないかと憶測するので、そういうものは少し避けて通りたいと思う(少なくとも当座は)。
それから、英語の動名詞表現を訳した「〜すること」という訳語も、それ自体については余り触れたくはない。「動くこと」より「動き」と訳したいし、そもそも「こと」ではないとさえ思っているからなのだが(でも、「〜すること」とやってしまうことは少なくない)。
さて、少し話が飛ぶが、ハードウェアは金物と訳すことがある。ところがソフトウエアを「軟(やわ)物」とか訳した例はあまりない。
もちろん、語として、softwareはhardwareという語よりも遥か後に出来た語であって、それゆえ「軟物」のような訳語もないのかもしれない。
また、逆に、ハードウェアはなぜ「硬物(かたもの)」ではないのか、という問い方でもいいだろう。
上の「ある種の前提あるいは方向性」と、このhard/softwareの関係はどうだろうか。
単純に考えると、hardwareは物あるいはものであり、softwareはことであるのかもしれない(wetwareとかfirmwareとかの語もあるが、これは意味的には二次的なものであると考えて今は触れない)。
しかし、
1)ハードウェアというもの
2)ソフトウェアというもの
という表現は十分有り得るので、ソフトウェアもものである場合があるようだ。
ここでの教訓は、「もの」や「こと」それだけに限定的な意味をあてがうことは困難だということであって、前後のコンテキスト(文脈)を無視して論議しても例外がたやすく見つかるような論議になってしまうだろうということだ。
それは単に、「もの」や「こと」に係る(前置する、あるいは後置する場合も含め)語の品詞がどうであるというレベルだけではなく、より広い意味的なコンテキストも考えなければならないだろうということだ。
それは例えば、私はそう感じるが読まれている方がそう感じるかどうかわからないレベルのことだが、
1)ハードウェアということを考える
2)ソフトウェアということを考える
という表現も「というもの」ほどではないものの、ありそうだ。
そして、「もの・こと」いずれもやや本質的、一般論的なニュアンスを持っていると感じるのだが、それでも「ということ」のほうが具体的な限定をやや感じさせる(これもまた、私だけの感じ方であるかもしれないとは思っている)。
限定的と言ったのは、例えば、「この問題を実現するために」という状況を加えると、
1)この問題を実現するために、ソフトウェアではなくハードウェアというものを考える
2)この問題を実現するために、ハードウェアではなくソフトウェアというものを考える
3)この問題を実現するために、ソフトウェアではなくハードウェアということを考える
4)この問題を実現するために、ハードウェアではなくソフトウェアということを考える
のどれが最もしっくりくるだろうか(これはかなり微妙な差になるだろうが、それでも、状況設定すると、より「ということ」が受け入れやすくなるように感じる)。
限定性というような言い方をしたのだが、次の例はどうだろうか。
1)展示されているものを批判しないでください
2)展示されていることを批判しないでください
おそらく2)は「何かが」「展示されていることを批判しないでください」であろうが、今、これを一枚の絵が展示されているとしよう。
そうすると、1)は展示されている絵を批判しないのであるから、黙って楽しめ!なのか、あるいは、もしかしたら作者が批判を著しく嫌うからなのか、などが思い浮かぶ。
2)は、それが展示されていることを批判しないでと言っているので、展示(展覧会)を主催した者がそのような駄作を展示していることを批判しないで欲しい、というような意味合いにもとれるだろう。
そうすると、1)の「もの」が具体的には絵だが、2)では、「こと」は展示行為、あるいは展示されている状態・事態を指していることになるだろう。
この場合、「展示されているもの」「展示されていること」のどちらが正しいかではなく、それぞれが正しいと感じられるコンテキストがあるということになる。
実際のところ、多くの「もの・こと」に関する解説で気づくのは、「もの」「こと」の相違をより具体的な周辺状況を挙げて論じているという点だ。
周辺状況なしには明確に出来ないようなものなのだろうか。
1)愛というものを考える。
2)愛ということを考える。
両方とも可能な文だと思うのだが、どういうニュアンスの相違があるだろうか(あるいは、この例では差が殆ど無いのだろうか)。
これはただの感覚なのだが、私はこの両者にはそれぞれ適切なコンテキストがあるのではないかと思うのである。
例えば、「憎悪ではなく、」に続ける場合、上の1)と2)のどちらがすんなりと読めるだろうか。
あるいは、「憎むのではなく、」に続ける場合はどうか(「愛」ではなく「愛するということ」にしたくなるかもしれないが)。
この二つをどちらかだけしか受け付けないようなコンテキストはあるだろうか。
1)同棲ではなく結婚というものを考える。
2)同棲ではなく結婚ということを考える。
というような例の比較でもいいかもしれない。
上の2つの例は、「展示されているもの/こと」の例とはかなり異なっている(と言うか、かなりニュアンス的な差になると私は感じる)。
1)その人のことを考える。
2)その人のものを考える。
1)はその人を考えるのであるが、「あなたを考える」は日本語としてなぜか落ち着きが悪く「あなたのことを考える」になる。
これは、その人そのものを考えるというよりその人の存在・生活・挙動あるいは安全・健康と言った全体的な状況を含むことを意味する「こと」なのだという考え方がある。
このような場合、英語だとどういう表現が有り得るのだろうか。
1) I think of you.
2) I think that you are alive there and doing something and...
(今、動詞はthinkだけを考える。)
少なくとも「そのひとのこと」の「こと」にはかなりの出来事や状況判断あるいは感情的な関係性を含んだ何かを感じ取ることができるだろう。
一方で、「その人のもの」は何か限定的な物品、鉛筆とかを感じさせ、そうでなくても、「こと」のような広い意味合いを含まないように思える。
では、
1)町で面白いものを見た
2)町で面白いことを見た
3)町で面白いことがあった
はどうか。
1)は普通の表現と感じるが、2)は、そういう言い方をする人もないわけではないだろうが稀かもしれない。
2)を普通の印象にするとしたら、3)になり、そう考えると、「こと」は見られない、見ることが出来ないからだという説が出てくるかもしれない。
しかし、
4)町で面白いものを聞いた
5)町で面白いことを聞いた
では、どちらが普通の印象を与える表現だろうか。
私なら4)より5)の方が普通だと感じるのだが、そうだとすると、つまり、
1)町で面白いものを見た
2)町で面白いことを聞いた
が良い表現だということになり、そうであるとすると、違いは「見る」と「聞く」の間で起きているということになる。
似たような例を挙げることはできる。
1)私の書いたものを見なさい。 (「こと」は使わない)
2)私の言ったことを聞きなさい。 (「もの」は使わない)
私はむろん「もの」ー>見る、「こと」ー>聞くの関係が固定的にあると言いたいわけではない。
上の例の「もの」と「こと」をより具体的に考えよう。
1)の「もの」は見たのであるから、写真などで映像化できるものであり、場合によっては「象に衝突した車」のような物か、あるいは、物でなくても「車が象に衝突した出来事」であっても、やはり「ものを見た」になる。
2)の「こと」は、誰かから聞いた伝聞であるというニュアンスがあって、具体的に見ていない(見ることができない)ことであって、つまり、ある程度まとめられた「内容」のように聞こえる。
では、もし仮にこの話者が町で象の声で奏でられた(歌われた)バッハ無伴奏のごとき奇妙な音楽を聞いたとしたら、表現はどうなるだろうか。
おそらく、
3)町で面白いものを聞いた
が、正しいニュアンスの表現になるのではないだろうか。
こうなってくると話はさらに複雑になってくる気がする。
次の表現、
1)科学的思考とは、どのような仮説をも疑ってかかることだ。
2)科学的思考とは、どのような仮説をも疑ってかかるものだ。
3)私が採用した方法は、どのような仮説をも疑ってかかるということだった。
4)私が採用した方法は、どのような仮説をも疑ってかかるというものだった。
はいずれも可能な表現であろうと思うのだが、ニュアンスが違う。
この例では、「こと」はさらりと一般原則を述べた印象があるが、「もの」の方には、そういう一般原則表現に加えて「そうすべきだ」というようなニュアンス(感情的な勢い)があり、特に2)はそう感じられる。
1)愛は不思議なこと
2)愛は不思議なもの
1)愛することは不思議なこと
2)愛することは不思議なもの
3)愛するということは不思議なこと
4)愛するということは不思議なもの
おそらくこういう例を数多く並べ立てられると次第にどれが正しかったのかわからなくなってくる人も居るのではないかと思う。
実際にはどれだっていいという例もあるのだろうと思っているのだが、どれでもいいわけではない場合があって、その差を作り出しているものが何かということを今考えようとしているわけだ。
私は文法を論じたいわけではないので「形式名詞」と呼ばれる名詞についてだけ考えようとはしていない。
むしろ、語用上、「もの」と「こと」を区別するような状況・場合とはどのようなものなのかを知りたいと思って、あれこれ書いている。
で、結論は?
いや、結論はない!
むしろ、「もの性」(「もの」と表現したくなる性質・特性)と「こと性」(「こと」と表現したくなる性質・特性)というもの(こと)を明確化できないかと感じ考えている。
特に「もの」は即物的に物体、物質、物品を指すものでありながら、なぜ抽象的な「本質」のようなものを指し示す場合があるのか、そして、「こと」は具体的な出来事、物と物との関係性を意味しながら、伝聞的な「内容」のようなこと(もの)をも指し示す場合があるのかを考えてみなければいけないと思っている。
そう言えば、先日読んでいた本の中に「バラードというもののことを考えていた」という表現があった。
(続く・笑)
(2017/05/19)