この数年、その中でも特にここ一、二年、天候の定まらなさというか今までとは質の異なった易変性を感じる。
梅雨は梅雨らしからず、晴れの日も多く、降るときは降るときで梅雨前線の雨というより突発的な大雨が降る。
冬が春に、春が夏になっていく過程でも行ったり来たりすることが多くて、滑らかに季節が移行していかない。
それで、私はとうとう今年の菜園(?)のスケジュールを後倒しにしてしまった。
種の蒔き時期間最後ギリギリまで待っていたのだった。
そうした植物もここ数日成長が速まっている気がする。
たどたどしい歩き方でも、届くときには望むところまで届くということなのだろうか。
そして、この二、三日は雨だ。
この季節、鎌倉は紫陽花の名所巡りがテレビやネットでも繰り返し紹介され、観光客たちが文字通り道に溢れかえっている。
紫陽花は、車の溢れる道路横の歩道の人混みの中を歩いて見に行くほどの花なのかどうか私にはよくわからないが、それはそれ、花を見る、見に行くというのは結局「酔狂」なことなのだ。
さっき、裏庭菜園(というほどのものではないが畑にしているところと試み的な屋外水耕栽培をやっているところ)を見に行ったとき、幾つかの花を眺めた。
雨が止んだばかりなので、どの花にも水滴が残り、花たちは重そうに頭を垂れたり、花びらが変形したりしていた。
それなのに、花たちが喜んでいるように感じる。
それは私が雨というものが嫌いではないからなのかもしれないが。
紫陽花の花言葉は「心変わり」、萼の色が微妙に移ろっていくのを捉えてのことなのだろうが、季節や土壌のpHのせいで色が移ろうのを捉えて「心変わり」と捉えたというのは当たっていると考えるべきなのだろうか。
むしろ、紫陽花を見る側の思いが季節とともに変わっていく、それ故の花言葉だとも思えなくもない。
季節が移り変わるのは日本人にとってはごく自然なことだが、心が移ろうことを人は認めたがらない。
心というもの、あるいは「こと」が人工物ではなく自然のものであるのなら、移ろうことのほうが自然なのだという気もするのだが。
昨年植えるとき、緑に映えるのは何色だろうと考えて白を選んだわけではない、ただ白が好きだったのだ、心変わりしない白と考えたわけでもない。
いつの間にか白、なのだ。
そして、これはその数株の中でよく育ったものの一つ。
竹藪の横の紫陽花は随分と大きくなった。
上の方の花はもう私の頭よりずっと上だから2メートル以上はあるだろう。
これは私が帰ってきたとき既に大きかったのだが、紫陽花のすぐ横(というか、まるで紫陽花の枝分かれした何本もの茎の「間」に食い込んで生えているかのよう)に雑木が育ってしまっていて(その種は誰がそこに運んだのかわからないが罪な所に運んだものだ)、それが紫陽花が太陽の方を向くのを妨げて日陰を向かせるだけでなく勢いをも奪っていた。
幹が15センチ以上もあったろうか、その雑木を私は迷わずに切り倒し、紫陽花がもっと陽光に姿を向けられるようにした。
写真の紫陽花はこちらを向いて広がっているが、昨年までは右の方にせせこましげに枝を集めて咲いていた。
今年はその小さな成果がここにある。
その一帯を紫陽花で埋めようかと、昨年、ここにも白い紫陽花を二株植えた。
ひ弱な、今にも折れそうだった紫陽花が今年は少し強くなったようだ。
まっすぐに花の付いた茎を伸ばしている。
奇妙な所に味気ない緑の手が立てられているが、これは紫陽花のためではなく、昨年植えた山葡萄が伸び広がるに応じて付け足していったものだ。
雌雄の問題もあり実るのかどうかわからないが、実る夢を見ることができる程度には育ってきた。
物置になってしまっている北の家の西側の外壁は完全にノウゼンカズラの蔦に覆われている。
ノウゼンカズラはもともとずっと以前(この地を離れる前)に、或る思い出を追うように私が植えたものだった。
私が不在の間に、ノウゼンカズラは地下を伸びて庭の至る所に芽吹き跋扈していたが、一部を残して私はそれを刈り取ってしまった(それもまた今後も続く野との闘争なのだが)。
強い植物なので他の木などに絡みついて弱めてしまうことがあるからだ。
それでも、この花が好きなので老屋とその西側の椿の木はもうノウゼンカズラのものになってしまってもよいかと思っている。
住まう人のないあばら屋がノウゼンカズラに覆われて、花に包まれる。
それはどこか『桜の園』のような滅びを感じさせるのだが、それもまた一つの「野(の)」あるいは「野(や)」の形ではないかと思っている。
放射能汚染されて住む人が居なくなった近未来的小説の世界であっては欲しくはないが。
老屋を取り壊さずに居るのは、片付ききらない有象無象の物の置き場所が必要だからでもあるけれど、蔦と花に囲まれて静まり返る廃墟を見てみたいという、私の愚かな思いのせいであるところが大きい。
ノウゼンカズラはときどき剪定してやらないと花をつけないらしく、外壁に張り付いた蔦ばかりを虚しく眺めていたら、植木屋だった何でも屋さんが「家にイカンから切りました」と頼みもしないのに私の知らぬ間にほとんどを切ってまったのだが、これが幸いしたのか、切った翌年の夏(昨夏)蔦が再び壁を幾条も這い上って花が咲き出した。
昨年は花があるかないか、十数咲いただけだったが、今年はこれだけになり、まだまだ咲くだろう。
「野放し」と「手が入ること」の絡みを考えさせられる出来事の一つでもある。
本当はもう少し淡い赤ないしオレンジっぽい花のノウゼンカズラが好きなのだが、このノウゼンカズラは強い赤を誇示して老屋の支配権を主張しているようだ。
赤といえば、このバラももはや誰も面倒を見る者がいないのだが、今年も深紅の花を何輪か付ける。
私はバラという花がそれほど好きではない。
美しい花だと思う、いや、美しすぎるとさえ思うのだが、それ故にこの花にはなぜかのめり込めないのだ。
どうしようもない距離感というか。
だからかもしれないが、雨に濡れて少し姿を崩したバラは美しいというか少しだけ親しみがわく。
女王ではなく、健気に咲いている花として。
一連の花たちの写真で、結局、私が撮ったのは雨だったのかもしれないと思った。
(2017/06/30)
そして、今朝、今年最初のムクゲの花が咲いた。
バラとは対照的かもしれない、田舎家の花とも思える素朴な花だ。
見れば、たくさんの蕾が膨らんでいた。
時は気づかぬうちに満ちてくる。
(2017/07/01)