鎌倉ヤマガラ日記

鳥の話はあれども野鳥観察日記ではない似て非なるもの

名詞化すること


「もの」と「こと」の関係について関心を持ち続けてきたことは前にも書いている。

 

 

  


それに関して、名詞化ということに今は引っかかっている。

名詞化というのは、動詞や形容詞などを名詞にするというほどの意味で、それをたやすく実現するのは、例えば「〜する(という)こと」表現の仕方だ。

愛すること、優しくすること、恐れること、怒ること、悲しむこと、などなど。
あるいは、形容詞、形容動詞でも、不安なこと、怖いこと、などなど。

動詞である場合、その出来事は今ここで進行しているか、少なくともある時点で、また、何処かで進行していたということであり、時間的な推移、現象の変化を伴っているはずだ。
また、形容語は、被修飾語の指し示すもの/ことの性質を示すのであって、そのものを指すのではない。

しかし、これを「〜すること」のように言い換えると、「愛する」「恐れる」のように動詞そのものが表していたものが「こと化」する。
さらに、例えば「愛する」「愛すること」「愛」、「恋する」「恋すること」「恋」のように変化させたととき、最終的な「愛」や「恋」は完全に名詞であって、その内実の時間的経緯や変化が次第に印象を薄くするようになる。
「愛」や「恋」はもちろん物ではないが、「〜すること」よりも更に「こと化」、あるいは、もうほとんど「もの化」し始める。

「赤い」は形容語だが、「赤」はそういう性質のものがあるような印象を与える。
(しかし、実際には、色は実体ではない。)

心は物ではないことは皆が常識的に考えることだろうが、心の内実は何かと言えば、それは上に書いたような、愛すること、優しくすること、恐れること、などなどであり、常に変化し続けるものであると考えざるを得ない。
あるいは、むしろ、人は、そういうことの「主体・主語」として心を捉えられているのだろうか。

しかし、主語であるのなら、もっと具体的な、例えば、「私は」「象は」のようなものであるのが普通ではないのだろうか。
もともと、心は、出来事的な心、あるいは出来事とともに変化する感情的なものであって、名詞であるのが当然な「象」のような実体のあるものではないのだが、それにもかかわらず名詞化されている。
こういう意味で、心は何かしらの事象・変化が「もの化」されていると表現しておくことにする。

では、名詞化は何のためか?
わかりやすさ、あるいは、具体化するため?
しかし、心というもの/ことについては、「心」という名詞を当てがったところで、実際には具体化できていないし、むしろ逆に抽象化されてしまっているとさえ言えるだろう。

そもそも、名詞は「物の名前」だったのだとすれば、上のような名詞化は、何のために起きたのだろうか?

表現上の便宜だったと考えることもできる。
誰かをこれこれこういう経緯で愛するようになったという経緯(例えば、「優しい言葉を掛けてもらったことやその人の生き様が素敵だと感じて愛するようになった」)を語った後で、それを指し示すために「そのような愛だった」と言えば、手短に語れるが、「優しい言葉を」以下を、その都度、繰り返していたのでは、文章はどんどん長くなってしまうに違いない。
それでも文章ならまだ時間をかけて読むことができるが、会話で同様なことをしたら、とんでもないことになる(段落が終わる頃にはもう段落の始めを覚えていないようなことになりかねない)。

では、名詞化は、指示のためか、あるいは指示する上での効率を考えて生じたのだろうか。

確かに「あの小さな茂みの中に咲いていた、赤い肉厚の花弁を持ち茎に棘のある植物の花」を何度も繰り返すのは大変だから、「あの薔薇」「あの赤い薔薇」と言うように「薔薇」という名詞を作ってしまえば、会話は効率的になったはずだ。
では、「心」はどういう事柄あるいは物事を呼んだものなのだろう?



膠着状態に陥りそうなので、話を少し変えよう。

 

最近、私はタイ語にハマっている。
まあ、色々な言語にハマる質なので珍しいことではない。
ハマっている理由は幾つもある。
例えば、タイの文字。
子音に母音が伴われるとき、母音の位置は必ずしも子音の後ではなく前に来たり、子音を挟んだりもする。
いや、場合によっては、子音の上や下に来ることもある。
これだけでも相当難解そうだが、更に「声調」記号というアクセント/イントネーション記号が付く。
それらに拠って語の意味が異なってくる。
だから、タイ語のコンピュータ表示プロセスはさぞかし大変だろうと思う。

更には、これは必ずしもタイ語に限ったことではないが、名詞が同じ形のままで形容詞として使われる。

他にもあれこれ興味深いことがあって、タイ語の辞書と入門書を眺めているのだが、今、ここで書いておきたいと思うのは、修飾語と被修飾語の位置関係だ。

名詞が同じ形のままで形容に使われるというのは、wit-witty, girl-girlish, yellow-yellowish (もともとyellowは形容詞でもある), rose-rosyのような変化なしに形容語になるということで、これは勿論、タイ語に限ったことではない。

限ったことではないのだが、タイ語ではその程度がかなり著しい印象を受けたのだ。
こういう言い方は正しくないかもしれないが、名詞と形容語が「未分化」だというか、あるいは、敢えて未分化にしておいて語を柔軟に駆使する方向を選択してきたのではないかとさえ感じた。
そういう行き方は少数語からなる人工言語のTokiPonaとどこか通じるところがあるような気がする。

語の品詞や意味の曖昧さは言語にとって非常に重要な要因なのだと最近よく思う。
(科学において正確で矛盾の無い言語定義を作りたいと思っていた自分としては、自己矛盾にも思えることなのだが・・・)

ところで、名詞と形容詞が形が同じだった場合、それを区別する方法は何か?ということになるのだが、それは語順に委ねられている。
タイ語では形容語は、被修飾語(名詞など)の後に来る(後置修飾)ので、英語や日本語とは違う(しかし、フランス語は後置修飾する: 黒猫 chat noir)。
ラテン語のように、すべての語の語形が複雑に格変化する場合には、語順にこだわる必要はない、何処に在っても意味は通じてしまう(これはこれで美しい形だと思う)。

語順を考えるとき、例えば、

 drug store (薬の店)
 store drug (店で買った、あるいは売っている薬など)

の二つは指しているものが異なることになる。

日本語でも例えばこういう場合(「の」が挟まっているのは説明の都合上だ)、

 赤の花
 花の赤

は、それぞれ、おそらく、

 赤い花
 花的・花性の、花によくある赤

ということだろう。
また、赤鼻のトナカイと鼻赤のトナカイは微妙に違う。
前者は「赤い鼻のトナカイ「で、後者は「鼻が赤いトナカイ」だろう。
「赤い鼻」は物だが、「鼻が赤い」は事である。

さて、いささか強引に話を引っ張ってきたのだが、よく日本語の一つの特徴とされる例が、
「象は鼻が長い」という二重主語の、あるいは、述部に主語・述語を含む文だ。

英語なら、普通、

 An elephant has a long nose. 

とかになるか、あるいは、

 An elephant is an animal that has a long nose. 

のようになるだろう。
(実は象の鼻はnoseではないのだが、今はnoseとして話を進めよう...)

上の例では、後者の方が日本語のニュアンスをより良く捉えているようにも思えるが、さて。

では、こんな表現は可能だろうか? すなわち、

 1) An elephant is that the nose is long. (that以下を述部、形容語とする)

 2) An elephant is that its nose is long. (同上)

 3) An elephant is (an animal) that its nose is long. (関係詞)

 4) An elephant is with a long nose.

個々の是非は今はおくとして、animalという名詞を含むことなく「象は鼻が長い」というような文が可能なのは確かに日本語らしい。
しかし、実は日本語以外にもそういう文が可能な言語があるようで、タイ語もその一つだと書いてある文献があった。
(Google翻訳では、英語を枢軸言語にして各国語を翻訳しているのか、こういう翻訳文はなかなか見つけられない。)

前置詞や他の名詞(この例ではanimal)の助けを借りずに「象は鼻が長い」と示す文例をもっと探さねばと感じる。

同じ形の形容語と名詞とを使い分けるタイ語において、そういう文が可能だとしたら、それは興味深いことだと思う。
そこには、何かしら重要な関連性があると私は考える。

だから何だ?
いや、それは、色々考えるところが有って、今はまだ書くに値しないと思っているが、同じ形で少なくとも動詞であり名詞であり形容詞であり得る語を私は今思い浮かべているとだけは言える。勿論、副詞であることも可能だろう。
(名詞を副詞的に使う語用の例を考えるのも面白いだろう、例えば、You should go this way. は単に何かが省略されているだけなのか、とか、あるいはまた、it rains cats and dogs.など。)

ところで、ついでに言うと、

事は時間経過・経緯を含む。しかし、物は普通は容易に変化しないものとして捉えられる。
もの化と名詞化はどこかで重なっている。
名詞化した時、その時間的変化は固化・固定化したものとして捉えられる傾向にある。

例えば、心が物質のように、何処かの空間に位置するもののように捉えられる。
心は何処に在る? とかのようにだ。
しかし、心はそういうものなのか?
それはどこかで、物ならず形なき神に形を与える偶像崇拝に似ていなくもない。

「こと」であるとはっきりしていれば、それが何処に在るかと考えること自体が奇妙になるだろう。
「こと」は在るのではなく、起きているのだ。

名詞化して固化した事は、動詞で表せる進行形の経過とは異なっている。
そのことを指して言っているのかどうかはわからないが、仏教哲学者とでも呼びたくなる龍樹の「中論」の有名な言葉に、

 行く者は行かず

がある。

行く者と表現してしまった途端に、それは「行く」ことのないものに変わるということでもあるのだろう。
行く者は在るのであって、行くのではなく、「或る者が行く」のとは異なっている。

では、

 行くことは行かず

は、中論で是とされるのか?



さて、この一年、世界、日本、私個人、あれこれと変化の大きな年であった。

物もまた長い時間経過で見れば変化して経過する。
生きたる者は死に、形として在った身体は微小な分子に分解されていく。
生きていない路傍の石ですら、いつかは分子になり、やがてまた凝集して生物の一部にもなるだろう。

その意味では、固化した「行く者」もまた「行く」ことになるのかもしれないと思ったりする。


それ、使い古された言葉を使えば、色即是空、空即是色。

さてさて、言語とは何であろうか!?


(2018/12/21)  この話は「今を語るには」で違った角度からまた取り上げることになりそうだ。









 
 

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