またしても思いついて、思いつくだけならまだしも性格なのか即実行してしまうことが多くなった気がする。
現在、日本では野鳥を飼育することは禁止されている(鳥獣保護法)が、それは「捕獲」を中心にした考え方のようだ。
いずれにせよ、学術的研究という建前看板でもない限りヤマガラを飼うことは駄目らしい。
そしてまた、私自身が鳥を捕獲して、拘束することを良しとしないのだ。
何故と言って、私が鳥たちに関心を寄せるのはその自由な飛翔、何処にでも飛んでいける自由さを愛するからだ。
しかし、ここしばらく何とはなしに始まったヤマガラたちとの「交流」のためなのか、鳥について色々と知りたいことが出てきてしまった。
そうなると、ネットで情報を探すのもいいが、それがなかなか見当たらないせいもあって、自分で何とかして知りたいと思うようになる。
知りたいことはヒマワリの種選好だけではない。ヤマガラの鳴く声にはいろいろな種類があるようだ。
いわゆる繁殖期の恋歌であるとされる「つつぴーつつぴー」や、地鳴きという切り裂くように鋭い鳴き方(「ギギギー」と「ジジジー」)の両方を含むような音声(これは警戒音だとも言われるが、テリトリー宣言や他の目的もありそうだ)、さらには、相手を威嚇するときの、まるで猫の喧嘩のときに出すような「くはぁー」という息を吐き出すような(ギリシャ文字のχに似た)音も聞くようになったし、もしかすると、ヒマワリの種をくわえたときに聞こえてくる音ももしかしたら音声的なものかもしれない、となると興味は尽きない。
しかし、そういった点について、ただただ忍耐強く観察に励んでみるのもよいかもしれないが、自由な時間が限られている身としては、もう少し身近なところでヤマガラを見ることができればと思ってしまう。
これこそが所有欲の始まりというべきものなのだろうか。
少なくても「餌を撒き餌として与える」「餌を与えて(拘束はしないが)半飼育状態にする」「飼う」の三種類の関わり方がどう異なるか知っておきたいとも常日頃から思っている。
さらにまた、学術研究目的で飼うことが許されたとしても、そういう形で飼育された鳥は、そうでない完全に野生の、または、準野生の鳥たちと全く同じ行動形態を維持できるのかということも気になるところなのだ。
「限られた空間に住む」ことと「自由に飛び回れる暮らし」で、何かが違うとしたらそれは何だろう。
おそらく、こうした関心はただ庭に来るヤマガラについてだけではなく、我が身に関する何らかの関心・感情にもかかわることなのかもしれないとも思ったりする。
庭で「手乗りヤマガラ」を楽しむのも一興ではあるけれど、もう少しシステマティックにできることもあるのではないか。そう考えているうちに以前読んだ本を思い出し、思い返す。
ヤマガラは「芸」をする鳥だった。
そして、そういう人間に仕込まれた「芸」は、ヤマガラが本来持っている生得的な行動形態、行動レパートリと無縁ではないと、この本の著者も強調していたのだ。
そうか、そういうことなら、その辺りから何かしら辿っていけるものがあるかもしれない。
そう思ったが最後、以下のような動画の状態になるのに一週間はかからなかった。
学んだ鳥(ヤマガラ)たちは、学んでいない鳥(シジュウカラ)の羨望をよそに透明プラスチックのキー(左右二つ)を操作して餌皿の蓋を開けることができるようになった(これは本当の第一歩に過ぎないが、それなり微笑ましいことではあった)。
Laboratory at the Window 窓辺の実験室(1B Overhead View)
これは、「極力関わらない観察」と「関わりながらする観察」という昔ながらのテーマでもあるし、「実験」という冷ややかな語と「関わり」という暖かめの語を考えることでもあるだろう。
つまりは、自然・野生と人間の関わり方の問題の小さな一つであるということだ。
ここまでは見様見真似でやっていることもあって先が見えているわけはないし、これからやりたいこと、やらなけらばならないことも数多くありそうだ。
さて、そのための時間は、自由はあるだろうか?
動画についてYouTubeに記載した概略的説明は以下の通り。
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窓辺の実験室
とは書いたものの、これから何ができるものか予想がつかないと感じている(因みに上の少し奇妙な日本語は下手な英文を機械翻訳して日本語にし多少修正したものだ)。
さてさて、どうなるか、どうするか。
ところでこのpreliminaryな動画はパート1がある(作業途中感いっぱいだが)。
(2017/01/27)