鎌倉ヤマガラ日記

鳥の話はあれども野鳥観察日記ではない似て非なるもの

小さな虹と大きな木

それなり科学の世界に身をおいてきて、そしてそれはある意味でとても人工的な世界であって、というのは、科学は自然を扱うものでありながら自然から一歩引き下がって自然を客観化しようとするものだからであり、無論、自然に没入するタイプの科学者もいるけれど、それは特に主観を重んじるというか、観察したものを主観的に理解するところがあって、ゆえにそういう自然没入的な行き方から私は遠ざかっていたかったから、だから尚更そう感じるのかもしれないが、こうして久しぶりに戻り荒れ果てて葛が木のように何本も生えてしまい、蔓に足を取られそうだった場所を「再開拓」してそこに、クローバーとゲンゲと麦とその他の言わば雑草と呼ばれる花を植え付けあるいは種蒔いた後で、このような繁茂した緑を見、緑の匂いを吸い込むと、自然の中に没入しかけている自分を感じる。

そして、それは決して悪くない感覚だ。

所狭しと茂ったアカツメクサとシロツメクサ、それから詰め草の前では少し頼りなげそうに繊細にすら見えるゲンゲたちの上に、悪戯心を起こして水を撒き、小さな虹を作ってみた。

これはきっと幼かった頃に満たしき切れなかった(というか、やり終えることができなかった)野遊びの延長なのかもしれないと小さな虹を作りながら思う。

 

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朝顔、金蓮花、それに豆の仲間少々、また例によって自然淘汰に任せようと種を蒔き、水だけは与えなければと大雑把な撒き方をした水が作った虹は、明らかに人工的に私が作り出しているように見えるが、その虹の現象そのもの、虹の仕組みそのものは人工的ではない。

それは人が関与した、もう1つの「小さな自然」。

 

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客観的な科学、自然への没入、関わらぬことと関わることの境目を考えるには、またとない良き現象なのかもしれないとも考える。

 

虹という「物」は存在しない。

しかし、虹という「現象」は存在する。

そう簡単に言っていいのだろうか。

現象は「存在する」ものなのか。

それは、きっと永遠の問いなのだろうと思う。

自然の一環として生まれながら、自然を感じ取り、そして「意識」という奇妙な現象を胚胎させた人間にとって、幾度でも、また、様々に形を変えながら果てしなく繰り返される問いなのだろうと思うのだ。

 

そんなことを考えながら、壊れかけている古家の向こうの小山の上の木を見上げて、今更ながらにその育ちぶりに見惚れていた。

あの木は誰かが植えたものではない。

いつの間にかあそこに種が落ち、芽を吹いて根付き、枝を伸ばし過ぎては人に枝を切られながら、あそこまで大きくなったのだ。

もう二階建ての屋根を超える高さになっているだろう。

なぜあの木はそこで芽を出し伸び上がり緑の枝を広げているのだろうか。

 

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その本当の「理由」を答えられる者は誰ひとりとしていないのだ。

私はあの木の存在価値としてのraison d'êtreのことを言っているのではない。

そもそもraison d'êtreは他者から見た価値ではなく、自らの成り立ちを問うことであり、いわば自分だけの価値なのであるということを認めた上で、なおも、私はあの木のraison d'êtreのことを言っているのではない。

言いたいことは「価値」とは無縁のことなのだ。

そうではなくて、純粋に「なぜあの木はあそこに生きているのか」という遥かな問いに思いを馳せている。

遥かな問い、問うても意味もなく答も返って来ないであろう問い。

このブログを始めた時、私が思いつくままに自問した「この世界は公平なのか」には感情的な色彩が有ったかもしれない。

日向に落ちる種もあれば日陰に落ちる種もあるのは何故なのか、そして、それは公平か、と。

日向に落ちた種はのびのびと育ち、日陰に落ちた種は貧弱な育ち方をする、それは公平か、と。

しかし、今日、私はそれを、小さな虹が風に煽られて跳ね返ってきた飛沫に濡れて慌てて一歩飛び退いた時に視界に上から落ちるように入って来た木について、それがなぜそこに在るのかを問いかける。

それは感情的な問題ではないような気がする。

悲しみや怒りに囚われて「何故なのか」と問うときには、その問には疑問符だけでなく感嘆符も付いているのが普通なのかもしれない。

そして、喜びながら「何故」を問う人はそう多くはないと思う。

問う必要もないからだ。

私の今の問いは、怒りや悲しみ、あるいは喜びに駆られての問いではないと思うし、また、恐らくは答を期待してもいないと問いだとも思うのだ。

 

何故あの木はあそこに育ち枝を伸ばしたのか、それはそれこそ、たまたま、まさに偶然であったのだと言う他はない。

だから、これは言ってみれば「『偶然』の理由」、理由もなく偶々起きたことの理由をを問う、無意味なことであるのだろう。

それなのにも関わらず、まだ「何故」と問う。

それはもしかすると、怒りや悲しみや喜びとは少し次元の異なった別の感情、「共感」とでも言うべきものなのか。

そう考えれば、確かに私はこの問いを「なあ、お前」と木に向かって問いかけていたのかもしれなかった。

木は答えないであろう。

そして私も、ここに居る限り、問うことをやめないに違いない。 

 

(2017/05/02)