毎年、6月の初めから前半に梅の実を採ることになっている。
今年は見た目、実の大きくなり方が遅く、小さな実が鈴なりになっているような印象だったので収穫を躊躇っていたのだが、風の強い日が続くせいか実がポタリポタリと音を立てて落ちてくる。
落ちてくるのは十分育った大きな実なので、下から見ただけでは全体が把握できないのだろう。
樹の下に座っているとポトンと音がして実が落ちてくる。
棚ぼたでそれを拾い集めればいいというわけでもない。
落ちる梅は勢い良く落ちてくるので、地面に落ちると割れてしまう(今年はツメクサがクッションの役割を果たしてくれるところが部分的にあるが)。
ちょっと仕事の隙間ができたせいもあって、決心して実を採った。
ただし、大きい物だけを選んで採り、残りは数日後にと決めた。
脚立に登って採っている間にも幾つも実が落ちてきた、肩や頭の上にも。
その音を聞いていると何だか不思議な気がした。
例年あることなのだが、今年の音は何かが違うような気がして耳を澄ませる。
結局何が違うのかわからなかったけれど、何かを知らされている、そんな直観めいた感覚だった。
肩に落ち来る梅の実の幾つあるかを数えたり
ざっと計ったところで20数キロ分、ほぼ、一本の梅の木からだ。
他の木の実はまだ小さく、もう少し時間が必要なようだ。
この梅の木は祖母がこの地を選んだときに植えた梅の中の一本なので、もう老木であるはずなのだが、そして、その枝ぶりもまた長い年月を思わせる複雑な美しさを持っているのだが、それにもかかわらず勢いがあって、まだ10キロほどは採れそうだ。
不幸にして少し前に落ちた梅を踏んでしまうと、ズルリと潰れて甘酸っぱい梅の匂いが辺りに広がる。
私の好きな匂いだ。
踏んで遊んで祖母に叱られたことを思い出す。
「これ、梅の木だって一所懸命に実を作っているんだよ」
梅の実の収穫の勢いで、すっかり色が黄土色に変わった例の麦も収穫することにした。
収穫してどうしたいという明瞭な目的もないのだが、少し乾燥させてから脱穀の真似事をして麦の粒を見てみたいと思ったのだった。
脱穀して撒いてやっても鳥たちもそれほど関心を示さないだろう(食べなかった結果がこの「野の麦畑」になったのだ)から、来年になったら庭の何処かにまとめて蒔いてみてもいいかもしれない。
農業試験場のフィッシャーのように何かすることがあるだろうか。
集めた穂を眺める。
おそらく二、三種類の麦が混じっているのだろう。
それでも私にとっては一緒くたにして『麦』なのだ。
ただの麦、それだけで素晴らしいと思う。
ばさばささくさくと素手で掻き回して乾燥し始めた感触を味わってみた。
乾いた麦から太陽の光の感触がした。
野麦刈り またひとつの時間が定まっていく
(2017/06/10)
数日後に、と決めたはずなのにけっきょく翌日再度採集に。
なぜかというと、おそらく高い枝になっていて見えない実が多いのか次々に落ちてくるのでほっておけなくなったのだ。
その結果また20キロ。それでも高い枝になっているものには手が着けられず、まだ毎日落ちた実を掃き集める。
追い込まれて、こんなことをしてみたものの、幾つか溜まっては風に煽られて吹き飛ばされて、諦めた。
やはりこれは異常だなと思う。
寿命が来て衰える前兆でなければいいが。
梅酢と梅ジュース(濃縮)は隔年にしているので、今年は梅酢。4リットル3本くらいに。
残りは、梅酒になる(昨年はウィスキーも使ったが、今年はブランデーとホワイトリカーに限定)のだが、瓶が8本になって、昨年度の残りもあって置き場に困る有り様。
酒は好きだが、果たして来年の同じ時期までに飲み終わっているだろうか?
全部そうやって処理できたかというともちろんできず。
ご近所や知人にも回してやっと一段落したが、まだ別の木が残っている・・・
(2017/06/14)