人生に一度か二度しかないだろう重大で深刻な変化が起きたことをブログにうまく綴れる人はいるだろうか?
日々の記録、そういった性質のブログであるなら、人生の大事をその日常的な「日々」のページの中の一枚に埋め込んで語れるとは思えない。
実際にそう感じるときにはブログの価値は薄れてしまうけれど、それはまた、大事を一ページで語ろうと愚かにも考えるからなのかもしれない。
人生の大事がブログのような公表されるメディアに適したテーマだと考えることも難しい気がする。
ゆえにまた、私はブログに一ページを書き加えることができずに数カ月が経った。
それをどうキャッチアップすべきか今の私にはわからない。
わからないから、こんなことを書いて、竹やぶの隅に見つけたヒルザキツキミソウの写真を貼ってみる。
この花と出会ったのは、私がまだここに戻る前に暮らしていた場所でのことだ。
遅い午後、日当たりの良い土手一面に繁茂して、薄色の花が夕暮れ近い空気の中に浮き上がって見えた。
素朴な姿、淡くて、決して着飾った令夫人のような花ではない。
野生化して、どこの道端に咲いていてもおかしくはない花なのだが、通りすがった私はこの花に夢中になっていた。
名前を知らなかったので、家に帰ってから調べて名を知った。
それから数年後、ここに戻ってくることになりそうだと思われた年、その翌年、そして、昨年も、何度も種を買っては北の庭に播いてみた。
最初は芽が出たのかどうかもわからなかった(播いて、その場には翌年まで戻らなかったからだ)。
昨年は芽が出て葉を付け、30センチ程度には伸び上がったのだけれど、ほんの少ししか花を付けなかった。
土との相性が悪かったのか、あるいは播いた場所の日当たりが足りなかったのか、要因はいろいろあるにせよ、結果はひとつ、花は少ししか咲かなかったのだ。
そして、今年、竹やぶの前に建っていた古い家を解体した結果、竹やぶのすべてが見えるようになった。
この古い家はしばらくだが私が手を入れて住んでいたので、思い入れがあって解体の決心がなかなかつかなかったものなのだ。
それを思い切るだけの変化が起きて解体し、そこにできた空虚な空き地の向こう側の竹やぶ。
がらんとした空き地、青い竹に当たる陽光。
そして、ある日、この薄色の花が咲いていることに気づいた。
古い家の陰にいつの間に飛び移ったのだろうか。
気づいて探せば、少し離れたクローバーの茂みの中にももう二株咲いているのを発見する。
竹やぶの土壁に咲いた四、五株と合わせれば去年の倍くらいにはなるだろう。
気づかないということ、探すということの奇妙な関係についてしばし考えた。
この花たちは、こんなところに、なぜ咲いたのか。
その確固たる理由を知ることはできないが、花は咲いたのだ。
(2018/06/17)