「小首を傾げる(こくびをかしげる)」という言葉があるが、この「小」は英語で言うならslightlyのようなもので、「首を傾げる」程度がそれほど大きくないことを示すのだろう。
「小」があってもなくてもそれほどの意味合いの違いはないように感じるのだが。
その基本的な意味は「え、そうなのか?」といった「疑わしい表情を示す」こと、あるいは消極的な不同意なのだろうが、「よくわからないなあ」というような意味でも使われている気がする。
特に子どもたちが何かに疑問を持った場合などにニュアンスが当てはまるようにも思う。
形式的には、「小」は「首」を修飾しているのであると考えれば、小さな首を傾げるのであるから子どもにおいてか、あるいは愛らしい人物において適切な表現だということになりそうではある。
そう考えるとこの「小」はいささか多義的な役割を演じていることになり、そしてそのように機能し、そのように文中に位置を与えられる語あるいは部分語は他にもありそうだ。
私がヤマガラに惹きつけられた理由の一つが写真のようなヤマガラの行動だった。
愛らしいというか。
この写真の場合、実は、ヤマガラが傾げているのは首というより上体あるいは身体全体で、とても「小さな首」を傾げているとは言えないのだが、それでも、こういう行動を見たとき私に浮かんだ言葉は「小首を傾げる」だった。
それが妥当な表現であったとしたら、この「小」は首どころか、首を傾げている生き物の全体的な大きさについての修飾語になってしまう。
つまり、三番目の意味だが、身体全体が小さければ多くの場合に首も小さいのが普通だと考えると、二番目と三番目の意味はかぶっているところがあるとも考えることもできる。
そう言えば、小鳥ならぬ人間の子どもたちも首だけに限定して傾げるというより上体あるいは身体全体を傾げるような動きをすることが多い。
それは身体が全体としてまだ小さいせいか、あるいは、身体の各部がまだ十分に分化しきっていない、各部を細かく制御できていないからなのだと考えていいのだろう。
いや、それは身体に限ったことではなく、子どもが抱く疑問や不審、あるいは不同意のようなものでさえ、そういった感情や行動、態度の在り方そのものが未分化であるのであって、身体の大きさや動きはそれに相関するものであるのかもしれない。
いやいや、身体の動きや感情的な要因だけでもない。
写真のような行動は疑念や不審を表しているというより、何かをより良く見ようとしている様子とも見えないか。
目だけに限れば、いわゆる「矯めつ眇めつ」だが、目を細めるよりも身体全体に及ぶ注視の在り方として、写真のヤマガラの姿を見る。
もともと眼球を巧みに動かして物を捉える視覚的行動は進化の後半に現れたものだったのではないかと思う。
眼球が詳細な動きをするようになっていない生き物では、首を傾げ、あるいは上体を傾げ、場合によっては、身体全体を傾け、あるいは身体全体を移動させて、そうやってやっと目で物を捉えることができるようになるからだ(ここには動きのないものは見えにくいという知覚の傾向、特性がある)。
そう、そして、子どもたちの動体を追う場合を含めて物を見定めるような眼球の動きが未分化であることはよく知られていることであり、二十歳を過ぎてもまだ成人の完成度には達しないとも言われている。
話が「小首を傾げる」の「小」が何を修飾する語なのかという疑問から随分と違うところに来てしまった感もないではないが、いやいや存外無関係ではないかもしれない。
そう、それは、いわば、様々な要因や構造の部分間の、そして全体との「有機的な関係」なのだ。
かくも部分と全体の関係は一筋縄では理解しきれないものであるらしい。
おおいに面白い!(と感じているのは十中八九私だけなのだろう)。
(2017/01/24)