鎌倉ヤマガラ日記

鳥の話はあれども野鳥観察日記ではない似て非なるもの

カテゴリーとキーワード

特に特定の専門領域に限った話をしようというのではない。

いろいろな場面で私が感じる共通のことなのである。

例としてブログ記事とそのカテゴリーで言えば、「はてな」のブログでは、一つの記事は複数のカテゴリーに「所属」させることができる。
ブログサイトによっては、一つの記事は一つのカテゴリーにしか所属できないシステムになっている場合があって、私はこれは非常に不自由だと感じていた。
集合だったら、ただ一つの集合にしか所属しない要素というものは現実世界ではそう普通に在るわけではないと思う。
 
私は人間という集合に一応所属しているが、かつ、男性という集合にも女性という集合にも所属しないというわけにはいかない。
人間という集合に所属し、人間という集合の下位集合である人間の男性の集合に所属しているが、無論これは今例としてあげた集合間に上下関係、包含関係があるので、人間の男性であればどうしても人間でもあることになる。
しかし、こういう上下関係がない複数の集合にも私は所属することになるはずで、例えば、特定の職業の集合、特定の居住地の集合、特定の趣味の・・・と挙げれば切りのない数の集合に私は所属する。
 
さて、直上の例は、私が複数の「カテゴリー」に所属している例として書いたのだが、ブログサイトでは一つの記事に「キーワード」を振ることができ、これは複数可能な場合が多い。
ある特定のキーワード、例えば「ヤマガラ」を振られたブログ記事はそういう内容を持っているか、そういう語が含まれているか、何らかの形でヤマガラに関係しているということになる。
では、これを、その記事が「ヤマガラというキーワードを持つブログ記事の集合」に所属していると考えると、そういう「カテゴリー」に所属している記事と言うこともできるだろう。
当然のように、複数のキーワードを持つ記事は複数のカテゴリーに所属していることになる。
 
ネット上では検索に関して、他にも「タグ」という用語もよく見かけるのだが、これも名札・荷札とかの意味であり、あるいは、また、プログラミングではプログラムの一部のひとまとまりに名を付けるときにタグと呼んだりもするから、そこから派生したものかもしれないのだが、このタグはカテゴリーかキーワードか、あるいはそのいずれでもないのか。
こうした用語の問題は語用的問題であり、カテゴリーが「まとまり」の側から見たもの、キーワードが特性の側から見たものだとしても、実際にどういう場面でこれらの言葉が使われているかによって色々とニュアンスが異なってくるので、確と限定的なことを言うのは空恐ろしい。
 
しかし、こういったことはブログに限らない。例えば、今や、さまざまなノートあるいはメモ用のアプリが数多く開発され利用されている。
そして、そういうメモ取りソフトにおいても、一つのメモをカテゴリーに分類する、キーワードを振る、タグを付けるということができるようになっているのが普通で、分類好きな人たちは喜んで利用しているに違いない。
私の狭い経験では、こうしたメモの分類についても、単一集合所属形式になってる場合が意外に多く、そういうシステムで本当にメモを分類するのに役に立つのだろうかといつも疑問に思う。
 
まだ、他にもある。
文書作成機能には、いわゆるワープロ機能はもちろん、断片的な文書片を階層化しながら全体の文書を完成させるような機能を備えたもの(アウトラインなど)がある。
コンピュータ画面上でも、親をクリックすると子が複数表示され、その子の一つをクリックすると更に孫が表示されるようになっていて、「アウトライン」の名前どおり、概要から詳細へと文書を書いていけるようになっている。
親亀の下に複数の子亀、子亀の下にまたより多くの孫亀というピラミッド型の構造だ。
文書作成と話が多少とも重複するが、アイデアを取りまとめるために「マインドなにがし」といったソフトも数多く作られているのだが、ここにおいても、ピラミッド形式(単一の頂点・親)のものが多い。
極めて大雑把に言えば、親アイデアを「展開」するための構造なのだ。
 
しかし、ものを考えるということは、最初に「親」があって、そこから発展させる形ばかりとは限らない。
バラバラの断片をどのようにであれ関連づけていく、あるいは、関連づけて上位のアイデアにまとめていくという場合も多い。
関連づけるに際して、ピラミッド型はほとんど役に立たないというのが私の正直な感覚だ。
言ってみれば、帰納と演繹、アブダクション等々の問題なのだが今はそこに立ち入らずに現実的な範囲で考えている。
 
遺伝子論議ではないが、そもそも新しく何かが生まれるとしたら、細胞分裂して増える、あるいは単性生殖で親は単独で子を作るという場合より、異なった二人の親、二つの親アイデアから新しい子、子アイデアが生まれる場合の方が多いのではないだろうか。
異質なものが出会って、その交互作用から元のいずれとも違う新しいものが生まれるという例は、発明発見史上でも数知れずあるだろう。
二親だけとは限らない、複数の親アイデアから新しい子アイデアが生まれる場合もある。
(プログラミングに詳しい人たちはオブジェクト・プログラミングとかクラスの継承とか言い出しそうだが、そういう限定で今は考えているわけではないので、ご容赦のほど。)
 
だから、単一上位集合型の分類システムはあまり生産的ではないと私は考えるし、実際のところ非常に不自由なのだ。
 
このことには、もう少し違う側面がある。
それは、カテゴリーにせよキーワードにせよタグにせよ、そういう「特性づけ」は最初に付けたままずっと変わらずにいるわけではない。
極端な話、新しいブログ記事一つ、メモ一つ加われば、カテゴリー全体の構造が変わってしまうような場合や、使ってきたキーワードを変更する必要だって起こりえるし、いや、起こりえるどころか、そちらのほうが圧倒的に可能性としては高いのではないだろうか。
いわゆる「整理上手」の人たちは「頻繁に整理し直すことを厭わない」人たちだと思う。
言ってみれば、それは「永久革命」のようなものだ。
それをせずに旧態依然たるカテゴリー構造のままに放置していると、結局整理のできていない部屋になるか、あるいは、全く新しい性質を持ったものを受け入れることができないことになる。
 
あるいは、ブログで考えて見ればわかりやすいかと思うのだが、コピペの手軽さでポンと、あるカテゴリーを別のカテゴリーの下位カテゴリーにーできるようになっている(パソコンのファイル管理プログラムでホルダーを移動するようにカテゴリーを移動できる)例がどれだけあるだろうか。
(言うまでもなく、あるカテゴリーを解体してそこに含まれていた個々の記事を別のカテゴリーに移すということではない、カテゴリーの上下関係を可能にすることを言っているのだ。)
更に言えば、こういうカテゴリーの上下関係は、上が下を完全に含む場合だけとは限らないので、話は複雑になってきそうだ(私の錯綜した頭の中のように?)が、少なくともあるカテゴリーを解体したり移動したりするときに、他のどのカテゴリーに所属しているのか、その、他のカテゴリーに所属している記事の数はどのくらいかなどを参考にして、都合の良いカテゴリーを考案してくれるようなシステムがほしいといつも感じる(し、考案しようともしているが、クラスタ分析とかでは粗すぎるのではないかというレベルの話なので、余り真剣に捉えないでほしい。)
 
しかし、ブログサイトにせよメモアプリにせよアウトラインにせよマインドなにがしにせよ、上のようなカテゴリーの柔軟さをきちんと実現してくれているものが殆どないというのが、私の実感するところなのである。
カテゴリーの一覧から作成・削除できるようにしているものは多いが、カテゴリーを削除したとき、そこに含まれていた、所属していた、関連づけられていた個々の記事やメモを新たなカテゴリーに分類し直すことは意外に手間のかかる仕事になってしまう。
もう少し柔軟なカテゴリー化システムはないものだろうか?という問題意識は私の頭の中から消えたことがない。 
 
こうしたカテゴリー化は現状では極めて定性的で(質的で)数量化(統計化)されていないと感じてもいる私にとっては、一記事一カテゴリーのような世界は信じがたいほど窮屈で硬直したものなのだが、「はてな」のカテゴリー・システムは少しは良い方かもしれないと思う。
だが、まだまだ、黄昏とともに飛び立つ梟を飼っていたアテナには優れた奇抜な「これから先」があるだろうと期待する。
 
(2017/02/20)
 

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