窓際実験室の窓から外を眺めて、繁茂しつつある白詰草(シロツメクサ)の中に数点の鮮やかな黄色を見つけた。
一昨日気づいた菜の花ではない。
あの丸さは蒲公英(タンポポ)に違いない。
庭に行って確かめた。
そうして気づいた。
小さな、おびただしい数の野の草の花が白詰草の葉の絨毯に混じって咲いている。
昨日は蒲公英も咲いていなかったし、これらの小さき春の姿にも気づかなかった。
白詰草は私が蒔いたのだ。
いかにも庭園という庭ではない、野のような庭に作り変えようと。
かって祖母の時代には、立派な庭園で桜の名所ですらあったけれど、時代は変わるものだ。
無作為の、それでも望むような姿の庭。
野にあるがままに生ける花もあるならば、野のように広げられた庭もあってよい。
これからも時間の許す限り、私は「野」を庭に求めるつもりでいる。
菜の花の畑にいけば、その甘く強い香りに眩暈がしそうになる。
しかし、菜の花の匂いも白詰草も田舎の野原を象徴するようで、好きなのだ。
いや、好きになったと言うべきだと思う。
日本における「ターシャの庭」にはどのような花があるのがふさわしいのか。
この菜の花は植えもせず蒔きもしなかった。
鳥のための撒き餌から芽を出したのだ。
「作りこまれた」とは一見して見えないが、心を込めてある。
そういう庭の形を考え続けよう。
花咲くに謂れなく意味を求むは人の性なると知る
日差しまだ虫を見ず空気のみ暖かし今日の啓蟄
(2017/03/05)