ふとした思い違い、思い込みで記憶に残ってしまった誤った知識というものはなかなか自分では気づくことができない、気づく機会が少ないものだと今更ながらに思う。
写真は家の紫陽花の幾つかで、その中には日本古来のガクアジサイは含まれていない。
どちらが好きというわけではないのだが、こちらばかりが大きく育っている。
他にも我が家には、ピラミッド・アジサイとか幾種類かの紫陽花があるが、紫陽花の花は多種多様だ。
谷あいで湿度があっても困らない花であるためか、あるいは寺院が多いせいなのか、アジサイはすっかり鎌倉の花になってしまっている。
もともとのガクアジサイ。
この名称の「ガク」を私はずっと「萼」だと思っていた。
ガクアジサイの、花びらのように見える部分が実は萼(ガク)由来であり、装飾花とも言えるそうなのだが、それに囲まれる形で中央部分に密集する小さな粒状の部分が真の花であることは、けっこうよく知られている。
それゆえに私は「ガクアジサイ」は「萼紫陽花」であると信じ込んでいたのだ。
しかし、先日、テレビで「額紫陽花」という字を見て「え?」と。
萼の字が当用漢字にあるとかないとかで額にしたのであると言う人もあったのだが、名の由来は実はそうではないらしい。
萼の部分が真の花を取り囲んでいて、絵の額のようだったので「額紫陽花」と名付けたものだと知って驚いた。
萼の額、ふうむ、なかなかに学成りがたし。
それを聞いた絵描きの卵が、「随分自己主張する目立つ額縁だなあ」と言った。
絵描きらしい感想と言うべきか、それとも、高名な絵描きはみんな自分の絵を理解する額縁屋を持っているという事実を教えるべきか、しばし考えた。
自ら額装する絵描きも多いと聞く。
ちなみに、ガクアジサイの花言葉は「謙虚」、装飾的な萼の数が手毬咲きするアジサイに比べて遥かに少ないからだとか。
植物にとっての花の意義を考えるとき、真の花と装飾花の意味の違い、あるいは、関係を考えずにはいられない。
だとしたら、絵と額との関係も単なる「縁(ふち)」では済まされないのだろう。
花の不思議のひとつなのかもしれない。
花は何のために咲くのか。
あるいは、花の「部分、部分」は何のために咲くのか。
(2018/06/22)