鎌倉ヤマガラ日記

鳥の話はあれども野鳥観察日記ではない似て非なるもの

野にあるような庭を作ることはできるのだろうか

 

生花の世界では「野にあるように」花を生けるという行き方がある。

そのことは私がまだ高校生だった頃からずっと頭の片隅にある。

華道を嗜んでいたわけではなかったが、奈良の親戚に遊びに行った時、その床の間に生けられた茶花を見たのがきっかけだった。

以来、何回か引っ越して、時にはしっかりと作られた庭のある家に住んでいたこともあるが、やはり「野」という響きにはいつまでも引き寄せられる。

ここでもずっとそんなことを書いてきているけれど、故郷に戻って自分の家の庭というものを意識するようになると、その「野」はまた蛇のように性懲りもなく鎌首をもたげてくる。

 

もうほとんど物置と化していて廃屋化しかけていた北の家を解体し、その跡にできてしまったガランとした空き地に、またしてもシロツメクサとゲンゲを放ったのが3月だった。

一昨年からあるアカツメクサとシロツメクサはもう完全に雑草のように逞しく庭を覆っていたのだが、花の季節を過ぎて枯れかけたまま伸びているのを見かねて、2日ほどかけてその爪草たちを刈りこんだ。

ついでに、どうしても跋扈してしまう雑草も刈り取って、少しすっきりした。

新しく播いたシロツメクサとゲンゲはそのままにしてあり、それが写真でも緑のふくらみを広げている。

この写真ではよく見えないが、向日葵、金蓮花、オクラ、葉だけのシラユキゲシ、それからY字に切り残した雑木の隣にハナミズキがあり、Y字の向こう側にはノウゼンカズラを二箇所ほどアーチふうに仕立てようとしている。右下には日時計、中央下には瓦の「築山」が見えている。

築山のこちら側に睡蓮の鉢6鉢、それから、フレームしか見えていないが、クレマチス。

そう言えば、写真から外れた右側には今年になってイチジクを二本植えていて、ここに戻ったときにすぐ植えたオリーブもその横で枝を伸ばしてくれた。

その奥には下の花から上の花まで3メートルもある青紫の紫陽花、写真左に外れた駐車スペースの横にはムクゲの花や白い紫陽花が咲いている。

 

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意図してそうした部分と成り行きでそうなった部分の入り混じった場所だなと感じる。

とても「庭」と言えるものではないけれど、こうやって二階から見ると、ほんの少しだけ、ただの「空き地」ではなくなっているのかもしれないなと思う。

 

「庭」の定義は何だろう?

そう思って検索したら「屋敷内の空き地」というのがあって苦笑した。

私にとって、それはやはり「ただの空き地」ではないものであってほしかったのだから。

しかも「屋敷」という言葉からイメージされる「お屋敷」があるわけでもない。

 

植物を植えたり、池や築山を作って美しくした場所というような定義もあった。

ならば、こんなものでも「庭」なのか。

 

たいしたことができるわけではないと明確にわかっている。

たいしたことができているとも思わない。

そしてまた、いつなんどき、土地を売りに出し、この場所を去る日が来ないともわからない。

 

しかし、それでも、私は二階からの束の間の眺めに少しだけ満足し、私なりの「庭」の定義を考えた。

二階から見た写真を見ていて感じたことなのだが、「これは何だか少年たちの小さなジャングル、あるいは、野の一画にあって隠れ家にでもなりそうな場所みたいだな」ということだった。

そうだ、そこには微かながら何かしらの「テーマ」がある。

野は自然が作るともなく作った組み合わせ、ランダムではないが自然にしか作り出せない、ある傾向・方向性を持っているのだが、その傾向・方向性は人間にはなかなかわからない。

おそらく、「庭」は、人間にとって(あるいは、自分にとって)、何らかの傾向・方向性を持った空間なのだ。

傾向・方向性を持たない空間はランダムな空間だが、「庭」は何かしらがランダムではないところがある場所、ランダムでない何かを持った場所なのではないか。

そう考えれば、「庭」を定義するためには「テーマ(主題)」というものがどれだけ、また、どのように完全なランダム・無秩序とは異なるのかを考えておかなければならないということになる。

 

テーマのある空間、もしかしたら、それは庭だけでなく、例えば絵画というものにも当てはまる定義なのかもしれない。

 

(2018/07/03)

 

 そう言えば、「庭」には「慣れ親しんだ所」「勝手知ったる所」という意味合いもあった。

「ここは私の庭みたいなところだからね」と言うような場合だ。

慣れ親しんだ、あるいはよく知っているということは、その対象である場所にある全てを知っていることを意味しない。

例えば、勝手知ったる所だとしても、そこに落ちている小石まで知ることはない。

要するに、そこには、選択性がある。

つまり、慣れ親しんだものも、ある程度選択されたもの、その人にとって関心のあるものにしか慣れ親しむことはないし知ることもない。

とすると、庭にはそこにいる者の個性が忍び込んでいるというか反映されているということなのかもしれない。

 

(2018/07/04)

 

 

 

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