何故、オクラの花言葉は「恋の病」なのだろうか。
その花が、一日、いや、数時間しか開いていない、命の短い花だからなのだろうか。
それとも、恋に窶(やつ)れた人の細くなった指に実が似ていたせいか、時機を逸すると食べられないほど硬くなる実を嘆いてのことなのか。
それぞれに理由らしさがあるけれど、私はオクラのこの短命で可憐な花が好きだ。
とてもゴージャスとは言えないけれど、淡い黄とチョコレートのような蕊の色のコントラストが美しい。
まだ咲いていないと思っていたのだが、見逃していたに違いない。
一昨年来、ジャンボオクラとかいう2メートル近く育つオクラを植えていたのだが、今年は普通のオクラで、それほど背が高くなっていないのに、ジャンボサイズの身の丈をイメージしたままだったので、低い位置にあって、葉に隠れるように咲いていた花を見逃したのだろう。
昨日の午後に、幾つかの実と閉じた花を一輪だけ見つけたので、今朝は気にしていたおかげで出会うことができた。
もしかしたら、そういう目立ちにくい、見逃しやすい花だから、うまく行かなかった恋に似ていると古人が思ったのかもしれない。
オクラの花を見ないと夏が来ていないような気がする。
燃え上がるような何かをいつも待ち続けている季節が。
昼前に出かけて午後に戻ったとき、もうクレマチスは木陰に入りかけていた。
次々と蔓を伝って何かが昇っていくかのように上へ上へと新しい花が咲いていく。
何かが?
きっとそれは、こんなところにも花を咲かせにやってくる暇な妖精なのかもしれない。
光と影の境目で、置きっぱなしの椅子を背景に咲くクレマチスを見ていると、何故かはわからないが、そういう「別の世界」の入り口が目に見えないままにそこにあるような想いに囚われる。
そう、そんな妖精は、きっと、オクラの花の傍から、置き忘れられた椅子の上を通ってやってくるのだ。
人のいない時間に彼らは何をしているのだろう。
(2018/07/10)